プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生33」

秋子は、久しぶりに休日を家で過ごした。妹は友人と大阪市内に出掛けていたし、父親は休日出勤で家にいなかったので、
母親とふたりだけだった。家にいて母親とふたりだけになることはあまりなく、いつもはおとなしいふたりは聞き役に
回るのだが、今日は遠慮なく会話ができた。
「あと1ヶ月ね、あなたがここにいるのも」
「そうね。私がいなくなったら、おかあさん寂しくなるだろうな。小春は賑やかだけれど、どちらかというと
 おとうさんと話すことが多いから。おとうさんはスポーツ好きで、おかあさんは音楽を聴いたり、本を読むのが
 好き。私はおかあさんと趣味が合うから家族の中ではおかあさんと一番よく話をしたわね」
「ええ、でも秋子は初めての子でとても素直な女の子だったので、私のやりたいことを無理に押し付けてしまった
 かもしれないわね」
「どんなこと」
「私はとにかくクラリネットという楽器が好きだったから、幼い頃から習って来たピアノをやめさせて、中学からは
 クラリネットを習わせたのよ。私の望み通りに高校生の時にはかなり上達して他の楽器と共演して演奏会をしていた。
 プロの音楽家とも共演して、芸術家になるのかなと思っていたら...。高校3年生になると突然、大学に行って法律を
 勉強すると言い出した」
「そうだったわ」
「猛勉強して京都の大学に入ったけれど、大学では他のことに忙しくてクラリネットを吹くことはなかった。京都の会社に
 就職して2年程してから毎月のように東京通いをするようになり、やがてクラリネットの練習を再開した。またクラリネットを
 勉強するのかしらと思っていたら、最近になって、小川さんと結婚したいというものだから...。小川さんて優しくてとても
 いい人だと思うわ。だって、ディケンズを読んでいるんですもの。実は、私も小川さんと同じディケンズ・ファンで
 あなたが小川さんから借りて読んだ「リトル・ドリット」も以前図書館で借りて読んだことがあるのよ」
「小川さんはいつもディケンズ先生と言っているわ。夢の中に出て来て、いろいろアドバイスしてくれるそうで、
 私ともう一度やり直そうと思ったのも、なかなか踏み切ることができなかった結婚を決めたのも、ディケンズ先生が
 夢の中に出て来て励ましてくれたおかげだと言っていたわ。そろそろ翻訳された作品を読んでしまうので、原書を読もうか
 とも言ってたけれど...」
「芸術は生活に潤いを与えてくれるものだけれど、しばらくは生活の基盤を築いた方がいいと思うわ。生活にゆとりができたら、
 洋書を読むなり、クラリネットのライブをするなりすればいいと思うけど、まあ10年か20年してからになるかしら。
 まずはあなたも東京の生活に慣れて、小川さんとの生活を楽しめるようにならないと」
「そうね。私、東京に行ってしまうけど、手紙出すから、必ず、返事を...」
「わかったわ。でも泣かないで、だって喜ばしいことじゃないの。将来を誓い合える人が出来たってことは」
「ありがとう、おかあさん」