プチ小説「モーツァルト好きの方に(仮題)完結編」
太郎が家に帰ると、母親はリビングにあるステレオの前に座ってCDを掛けようとしていた。太郎が母親の背中の方からこっそりCDのジャケットを見ると演奏家が腕を組んで斜交いに構えているような写真だった。
「お母さん、そのCDはもしかしたら、モーツァルトのピアノ・ソナタ第8番の...」
「そう、この前駅前まで出掛けた時にレコード屋さんで見掛けたので買ったの」
「その人はなんて名なの」
「アルフレート・ブレンデルさん、チェコ出身のピアニストなの。ベートーヴェンやシューベルトがほとんどだけど、ハイドンやモーツァルトのレコードも素晴らしいのがあるのよ。特にこのCDはお母さんが学生の頃にレコードでよく聴いたわ」
「わあ、待ち遠しいなあ。早く聴きたいなあ」
「お父さんが、ボーナスでステレオを購入してくれたんで、これからはどんどんどしどし、クラシックのCDを購入して太郎に聴かせてあげるわ。そうして高校生になったら、お小遣いで自分が好きなCDを買えばいいと思うの」
「ああ、これがモーツァルトのピアノ・ソナタ第8番なんだね。ちょっと暗い感じの出だしだね」
「そうね、イ短調という調性だから。短調の曲は暗い感じで始まるわね。でもこの曲は最初の楽章で盛り上がって、第2楽章でやさしく甘くささやくような演奏になるの。それがとても素敵なの。しばらくはおしゃべりしないで耳をすましましょ」
「うん」
第3楽章の早くて激しい演奏が終わると、太郎は母親に話したい素振りを見せた。母親はそれを見て、CDを停止した。
「どうだった」
「うん、こんな素晴らしい曲を作ったモーツァルトの曲をたくさん聴きたいと思った。新聞で見たことがあるけど、モーツァルトの曲ばかりを集めた10枚組とか20枚組のセットを買うのがいいのかな」
「そうかしら、お母さんは雑誌や本やクラシック音楽好きの友人からの情報なんかで買いたいCDを決めて、少しずつ収集するのがいいと思うわ。演奏家の解釈で出来不出来が大きく違うのよ」
「でも、お母さんも学生の頃からクラシック音楽を聴いてきたんだから、いくつか推薦できるレコードはあるんでしょ」
「そうねえ、例えば、モーツァルトの後期の交響曲のレコードなら、カラヤン、ベーム、ワルターのが素晴しいって聞くけれど、40番はフルトヴェングラー、41番はアバドがいいと言う人が多いわ。クラシック好きなら、「じゃあ、それを全部聴くぞ」ということになるわ。もちろん学生の頃はそんな大金を持っていないから、優先順位をつけて、少しずつ聴いて行くということになるんじゃないかしら」
「ふーん、ぼくならブレンデルさんばかり集めたいなあ」
「ふふふ、ブレンデルさんはピアニストだから、交響曲の指揮はしないわ。エッシェンバッハさんやバレンボイムさんは器用な人だから、モーツァルトのピアノ・ソナタのレコードもピアノ協奏曲のレコードも残しているけれど...ソナタと交響曲の両方を録音している演奏家はいないみたいねえ」
「そうだ、モーツァルトはソロの楽器の魅力をフルに出させて、オーケストラと溶け合わせるのがうまいって、ぼくの知っているクラシック・ファンの人が言っていたけれど、そうなの」
「そうよ、ピアノ協奏曲が一番素晴らしいと言えるけど、ヴァイオリンやクラリネット、フルート、ファゴットなどの管楽器がソロの協奏曲も素晴らしいわ。お母さんは特に、フルートとハープのための協奏曲が大好きなの」
「じゃあ、今度は、そのCDを聴きたいなあ」
「お母さんも聴きたいからいいわよ。でもいつか太郎も好きな女性と肩を並べてクラシック音楽を聴く日が来るといいな」
「お母さん、何か言った」
「いいえ、また一緒に聴きましょ」
「そうだね。また教えてね」