プチ小説「マーラー好きの方に(仮題) 完結編」
大川は、川上と駅の改札口で待ち合わせた。大川が電車を降り、長いスロープを下りて改札口の周りを眺めると、川上が手を振っていた。大川はそれに応えた。
「遠路はるばる、よくお越しになられました。大歓迎いたします」
「ありがとうございます。でも、あんまりのんびりしていられないんです。午後3時にはここを出ないといけないんで、3時間ほどの滞在しかできないんです」
「それでもぼくの下宿には来てくれるんですよね」
「あ、下宿なんですか。アパート暮らしかなと思ったんですが」
「なかなか思うような物件がなくて、でも前みたいなことはないから」
「どんなんですか」
「ぼくは2階なんだけど、木造2階建てで、1階、2階とも6部屋あって、2階に共同トイレがあります。風呂は銭湯に通っています」
「それで4畳半なんですか」
「いや、それでは購入した大型スピーカーが置かれない。ひとつ40キロの重さなんだが、こいつがもうちょっとよければいいんだけど...」
「重いやつにしたいんですか。床は大丈夫ですか」
「もちろんやばい。でも楽しみと言えばこれだけなんで...」
「大家さんが許してくれているんですか」
「いいや、もし大家さんからどうのこうのと言われたら、これだけが生き甲斐なんですと泣きつこうと思っている。実際にそうなんだから」
「......」
ふたりが昼食を食べて下宿に向かったのは、午後1時を過ぎていた。
「これだとあんまりオーディオ装置がどんなだかわからないかもしれないですね」
「いや、見てもらうだけなら1時間もあれば十分だよ」
「見るだけですか」
「そうなんだ。オーディオ装置が揃ってから毎日朝から晩までレコードを聴いていたら、苦情が出てしまった。それで今はかすかな音に耳を傾けて聴いている」
「じゃあ、少しは聴かせてもらえるんですね」
川上の部屋に入り、二人が炬燵に入ると川上は抑えた声で話始めた。
「多少考え方が甘かったのは否めない。クラシックの名曲を適切な音量で流せば、誰でも耳を傾ける、楽しんでもらえると思っていたんだが...たいていの人は楽しんでくれているみたいだけど、住人の一人が大家さんに訴えたんだ。それでぼくとしては今までのようには聴けなくなった。それはちょうど大川さんに手紙を出した日のことだ」
「そうか、それがなければ、それなりの音量で聴かせてもらえたが...今ではその人の目というか、耳というかを気にしながらというわけですね」
「でもね、最近、その人がフュージョンのファンだと聞いたから、これを掛けてみようかなと思うんだ」
「ふーん、ヒューバート・ロウズの「春の祭典」ですか」
「もしかしたら、関係が悪化するかもしれない。そしたら下宿を変わることになるかもしれない。でも...もしかしたら」
そう言うと川上はターンテーブルに「春の祭典」のレコードを乗せて回転させ、針を置いた。
最初の三曲の反応はなかったが、4曲目のバッハのブランデンブルク協奏曲第3番第1楽章の編曲(アレンジ)のところにくるとドラムスの音に合わせて、拍子を取っているような音が聞こえて来た。川上が、これはもしかしたら彼とお友達になれるかもしれないよと言って廊下に出たので、大川もそれに続いた。
廊下にしばらくいると隣の部屋の住人が出て来た。
「やあ、こんにちは」
「ああ、あなたでしたか。またクラシックと思っていたら、ぼくの好きなヒューバート・ローズだった。彼のレコードなら一日中聴いていてもいい」
「それはよかった。それじゃあ、どうです、サン・フランシスコ・コンサートというのもあるんですが」
「あー、それも聴きたいですね」
「さあ、炬燵に入って、ごゆっくりと」
午後3時前に、ふたりは川上の下宿を出て駅へと向かった。
「まあ、次に来てもらうまでには隣の人ともっと仲良くなってクラシックを適切な音量で聴けるようにしておくよ」
「そうですね。楽しみにしています。話は変わりますが、ヒューバート・ロウズのフルートも素敵でしたよ。クラシックのテイストが心地よくて。まさに目から鱗というか」
「そうかもしれない。ぼくたちは今までクラシックのガイドブックでカラヤン、ベーム、ワルター、クレンペラー、アバドの名盤を買い漁っていたけど、社会人になったんだからもっと視野を広げるのもいいのかもしれない」
「そうですよね、いろんなものに柔軟に対応するのが、人生を豊かにするのかもしれないですね」