プチ小説「ベートーヴェン好きの方に(仮題)完結編」

中村と山根氏の交流は、卒業前まで続いていた。何度か、中村は一人で山根氏の自宅にお邪魔して、コーヒーを入れてもらったことがあった。山根氏の要請があって、クラスメイト4人と一緒に訪問したことがあった。山根氏の誕生日なので、自分の料理をごちそうしたいと言われ、牛肉の赤ワイン煮と手製のシーザーサラダを生徒に振舞われた。そうして生徒が持参したシュークリームを食べ、お酒を少し飲みながら先生が話す留学時代の楽しい話を聞いて、会は散会となった。中村がいつも一緒にいる友人ではなく、山根氏がお気に入りの生徒を呼びたいと言われたので、中村は安藤、池田、伊藤、山際に声を掛けたのだったが、中村はこれら学友とはあまり深い付き合いはなかったので、山根氏の下宿を出ると4人とは別れて、帰途を急いだ。それでも普段会話をしない学友と楽しい時間が持てたのは有意義だった。今までそんなことを言われなかったのに、突然、彼らに会いたいと山根氏が言われたのはなぜだろう、中村は阪急四条大宮駅へと走るバスの中で思った。

それから1年近くして、山根氏から中村に手紙が届いた。そこには話がしたいから、下宿に来てほしいと書かれてあった。一週間ほどして中村が訪ねると、本が段ボール箱に入れられていた。
「先生、引っ越しをされるのですか」
「そうだよ。年度が変わったら、別のことを始めるんだ」
「ドイツ語の先生ではなくなるのですか」
「そう、もともとぼくは西洋史を大学時代に専攻していたからね。大学時代に研究のためドイツに3年間留学していたから、その語学力をアピールしてドイツ語の教師を5年間したけど。ドイツ語の教師を生涯するつもりはない」
「それでは何を研究されるのですか」
「君に何度か話したけれど、ホメロスの英雄叙事詩をはじめとするギリシア文学に興味がある」
「ソクラテス、プラトン、アリストテレスとかですか」
「いや、それは哲学だよ。私がやりたいのは、ホメロスの英雄叙事詩、アイスキュロス、ソポクレス、エウリピデスなんかのギリシア悲劇それからアリストパネスの喜劇なんかだね」
「先生は、どうしてギリシアの文学に惹かれるのですか」
「例えば、英語学や英文学を専攻していない私がイギリス文学を極めることは難しいだろう。同じことがドイツ語でも言えるだろう」
「でもギリシア語でも言えるんではないですか」
「それは言えるだろうが、好きなものは長く続けられるんじゃないかな。ところで君が将来時間が持てて、ギリシア悲劇を読んでみたいと思ったとしよう。アイスキュロスを読んで、いろんなことが書かれてあるけど、断片的な事象を羅列しただけに思うかもしれない。でもソポクレスを読むと登場人物の対話があり、きっと君でも面白く読むことだろう」
「ソポクレスが面白いのなら、読んでみようと思います」
「このふたつのようにギリシア文学はギリシア神話やソポクレスの悲劇のように馴染みやすいものと、最高峰ホメロスの「イーリアス」「オデュッセイア」やアイスキュロスの悲劇のように取っつきにくいものがある。どちらを選ぶかで研究の仕方が随分と変わってくることだろう」
「先生はどちらにするんですか」
「それはこれから決めていくが、既に明らかになっていることを辿っても仕方がないだろう。どうせなら、みんなが分かりにくいと思っていることを敷衍して理解してもらえるようにするのが、研究者の使命だと思っている。例えば、ソポクレスは現存の悲劇の台本にはわかりやすい訳があるから、私の研究対象にはならない。と言っても、ホメロスやアイスキュロスは余りにも手ごわいから、やるかどうか」
「先生のお話はよくわかりました。ぼくとしては、10年か20年先に先生の成果として、先生が著されたギリシア文学についての著作を読ませていただけたら、と思います」
「そうだね、何か残すことを約束するよ。そういうわけでこことはおさらばだ。君や君の友人たちのことはドイツ語を教えていた時の楽しい思い出として頭のどこかに残しておくよ」
中村は、ご検討を祈念していますと言って山根氏と別れたが、きっと時にはベートーヴェンの音楽を聴いて、心を奮い立たせて研究に励まれるんだろうなと思った。