プチ小説「ブラームス好きの方に(仮題)完結編」
福江は隣のソファーに腰掛けている女性が、クラリネット初心者ではなく先輩であることがわかったので、いろいろ聴いてみたくなった。
「以前、クラリネットを演奏されていたのですね。失礼なことを言ってしまいました」
「ふふ、気にしなくていいですよ。実際、仕事が忙しかったので、最近はほとんど手にしなかったことですし」
「でもブラスバンドで3年間みっちりされたのなら、いろんな曲を演奏されたでしょう」
「そうね、いろいろな曲を演奏しましたわ。ブラスバンドではみんなが一心になって一つの曲を仕上げるために何時間もかけて練習するの。それだから中学生の頃はクラリネットがいつもそばにあったと言えるわ。でも高校生になると大学進学のことも考えないといけなくなって...」
「それで一時中断されたのですね」
「でも遠い昔のことのよう。いつか再開したいと考えていたけど、それから数十年経ってしまって」
「えっ」
「ふふふ、今のは長すぎたかな。でもそれくらいの感覚なのよ。昔の感覚が取り戻せたらいいけれど。あら、5分前だわ、レッスン室に行きません」
「今後ともよろしくお願いいたします。行きましょう」
レッスン室に入ると、一人の男性と3人の女性がいた。最初にそれぞれ自己紹介したが、福江と同様楽器未経験の女性が一人いたが、男性はギターを習ったことがあり、女性の一人はピアノを習っていて、もう一人の女性は高校時代にブラスバンドでユーフォニアムを担当されていた。
先生は自己紹介の後、言われた。
「みんなを指導するのは私がしますが、岩木さんは経験者ですからまとめ役をしてもらえると有難いです。さあまずはアンブシャーと運指について説明しましょう」
先生からのお願いがあったためか、岩木さんは、本当に他の生徒の為によく教え、動いた。他の生徒からの初歩的な質問に笑顔で答え、発表会の前の生徒だけの練習の時には日程調整をして、自らが指導した。チューニングやテンポの設定も他の生徒に伝授した。7年目は他のクラスと合同でチャイコフスキーのアンダンテ・カンタービレを演奏したので、岩木さんからの他の生徒への指導は少しだけだったが、それまでの演奏会はすべて岩木さんがまとめ役を買って出たので、演奏会を難なくこなすことが出来た。先生も岩木さんに感謝している様子だった。
しかし7度目の発表会が終わると半年もしないうちに他の3人の女性がいろいろな理由で退会されたため、岩木さんと男性と福江だけになった。ある日、福江が待合でクラリネットを組み立てていると岩木さんが声を掛けた。
「長々、お世話になりました。今日は先生にお別れのご挨拶をしに来たの」
「えーっ、どうしてですか。まだまだ岩木さんと発表会で演奏したかったのに」
「福江さんの気持ちはとても有難いけれど、私としては十分にやりたいことはやったという感じ。テキストも3のテキストをほとんど終えて、エクササイズの曲もすべて練習した。習うことは習ったという感じ。それに7年間一緒だった人たちも半分が退会されたし」
「岩木さんが退会されたとなると、発表会はどうなるんですか。ぼくは他の人を教えられないし。チューニングやテンポ設定も」
「それはあまり大切なことではないわ。まずは発表会で演奏したい曲を決めて、一所懸命練習することよ。発表会で一緒に演奏する生徒さんと信頼関係ができれば、チューニングやテンポのことは自然にまとまるわ。福江さんはいつか、ブラームスのクラリネット・ソナタ第2番が大好きだと言っていたでしょ。私としては、それが演奏できるまでは頑張ってほしいな」
先生にご挨拶してくると岩木さんが言ったので、福江は岩本さんの後姿を目で追いながら、長い間お世話になりましたと頭を下げた。