プチ小説「シベリウス好きの方に(仮題)完結編」
井上が、小川と秋子の結婚式の会場に着いたのは披露宴が始まる1時間前だった。披露宴の予行演習をする人は設営の準備の邪魔にならなければ、マイクやピアノを使ってもよいということだったので、親友としてきちんとスピーチが出来るように井上は何度か、披露宴の会場で原稿を読んでみた。マイクのテストもやってみた。一安心して原稿を上着のポケットに収めていると、ピアノが鳴り始めた。井上が大好きなシベリウスの交響曲第2番をピアノで演奏していたので、井上は興味津々でその演奏を聴いていた。井上はシベリウスの交響曲第2番をピアノ演奏で聴くのは初めてだったので、思い切ってその大柄な女性に声を掛けてみた。
「こんにちは、僕は小川さんの親友として結婚式に出席させていただいているのですが、あなたは秋子さんのご友人ですか、ご親戚ですか」
「こんにちは、私は秋子の高校時代からの友人だけど」
「そうなんですね。僕があなたに声を掛けたのは、僕の大好きなシベリウスの交響曲第2番をピアノ一台で弾かれているのですごいなーと思ったんです」
「そうかしら、じゃあ、これはどう」
しばらくピアノを聴いていると、それは、シベリウスの「フィンランディア」のピアノ伴奏だった。
「す、すごいですね。「フィンランディア」もシベリウスの交響曲第2番もピアノ演奏は初めてです。プロの演奏家の方ですか」
「いいえ、私は音大を出て、フリーで演奏活動をしていたけれど、1年前に音大の同級生と結婚したので、演奏活動はしばらくできないんじゃないかしら」
「そうなんですか...おや、そちらの方は」
「主人です。ああ、披露宴の準備が始まるようだわ。もうここを出ないといけないようですわ。また後程会場でお会いしましょう」
「そうですね」
井上は新郎の親友で代表して挨拶をすることになっていたので、席は小川のすぐそばだった。披露宴が始まってすぐに小川から、昨夕から始めた引っ越しの片付けが未明まで及んで睡眠時間が1時間ぐらいしかなかったことを聞いていたので、小川が下を向いて寝息を立てていても不思議に思わなかった。ただ隣のテーブルに座っている、先程の夫婦の会話が気になった。
「お前、今日はジャズのメドレーをするということだから、楽しみにしているよ」
「あなた、そう言って私のすることを評価してくれるのね。うれしいわ。でも、私のすることを評価しなかったり、無視したりする人は...」
「ど、どうなるんだい」
「自分がしていることを後悔させてやるわ」
「......」
披露宴の司会者が、それでは今から、新郎新婦の友人代表から、メッセージがあります。新婦の友人は、この良き日のためにふさわしいジャズの名曲、「明るい表通りで」「この素晴らしき世界」「二人でお茶を」「春の如く」「恋に落ちた時」をメドレーで演奏されます。そして新郎の親友からはスピーチをしていただきますと言った時、小川の鼾がひときわ大きな音で鳴り響いた。新婦の顔を見るとりんご飴よりも赤かった。それでも新婦の友人は気を取り直してピアノに向かった。鳴り出したピアノの音は音色もテクニックも申し分なく、会場の多くの人を唸らせた。
井上が感心して、席を立ちスピーチをするマイクに向かおうとした時、それは丁度、「恋に落ちた時」を女性が弾き始めた時だったが、一際大きな鼾が会場に響き渡った。それまで顔を紅潮させてピアノと向き合っていたピアニストが、突然、許せないと叫んで新郎のところに走り寄ったのだったが、夫の機転で大事には至らずに済んだようだった。
井上は大トリを任せられていたので、食べものがのどを通らずほとんど食べられなかったが、夫婦の大事に比べたら、自分のことは取るに足らないことのように思えて、スピーチを無事終えた。小川も夫婦のやり取りを見て、さすがに居眠りはもう許されないと気付いたようだった。
披露宴が終わって井上が小川に別れを告げに行くと、小川は大きなカップでコーヒーを飲んでいた。
「大事に至らなくてよかったね」
「君は冗談で言ったんだろうけど、もしご主人が止めに入らなかったら、鳩尾にパンチを食らっていただろう」
「まさか、披露宴でかい」
「後でご主人が言っていたんだ。妻は自分で正しいと思ったことは実行します。もし私が止めなかったら、あなたは新婚旅行どころではなかったでしょうと言われたんだ」
「......」
「君は大変な人とお付き合いしないといけない。大変だなと思っているのかもしれないけど。秋子さんの親友でもあるし、ピアノの腕はぴか一だから、頭を下げてでもお付き合い願おうと思っているんだ」
「そうか、それならぼくは4人が仲良く幸せにやっていけるよう祈っているよ」
「ありがとう」