プチ小説「ワーグナー好きの方に(仮題)完結編」

年末にNHKFMで放送される、ワーグナー「ニーベルングの指輪」全曲の放送には、興味が持てない神田は、自分は一生ワーグナーのオペラには縁がないのだと思っていた。
だって、ラジオやステレオに対峙して16時間ぶっ通しで聴けないだろう。「ラインの黄金」「ワルキューレ」「ジークフリート」「神々の黄昏」もそれぞれ4時間あるのだから、そのうちの一つを聴くだけでも、半日を要してしまう。「タンホイザー」だけなら、3時間足らずだから、オペラが苦手な俺でも楽しめる。やっぱり門外漢は、カラヤンやストコフスキーの管弦楽集を聴いているのがいいのかな。
それでも諦めきれない神田は、しばしばワーグナーの楽劇に関する本や楽劇のDVDの中古品を安価で入手しようとネットショッピング(ネットウインドウショッピング)に精を出していた。
例えば、数百万円の自由にできるお金が手に入り、幸運にもバイロイト音楽祭の「ニーベルングの指輪」4日間通しのチケットが入手できた。休暇も1週間取ってよいということになり(これが一番難しいかもしれない)、長時間の飛行機も、英語も全然話せないことも何とかなるとしても、ここでひとつ大きな問題がある。それは、訳がつかないから心から楽しめないということなんだ。アメリカの映画が楽しめるのは、字幕スーパーで訳が画面の下のところに出るからで、バイロイト音楽祭にはそれがないだろう(オペラの日本公演では、舞台のそでに字幕スーパーのような表示をすることがあると聞いたことがあるが)。何を言っているかわからなければ、劇を見て感動することも、涙を流すこともできない。感動が伴わないのにわざわざドイツまで出掛ける必要があるかどうか。バイロイト音楽祭の雰囲気が楽しかったとか本場のビアホールでソーセージをつまみにビールを飲むというのは、俺にはどうでもいいことなんだ。それより映画館や自宅の再生装置で楽しむようにワーグナーの楽劇が楽しめるかどうかが大事なんだ。
ズービン・メータがバレンシア音楽祭で「ニーベルングの指輪」を演奏した、DVDを神田は手に取って呟いた。
このDVDは大手のレコード会社が発売したものではなく、世界文化社という出版社が発売したものだ。例えば、ウィーンやドイツ国内の有名オペラ劇場での公演やウィーン・フィルやベルリン・フィルが演奏するオペラ公演ではドイツ・グラモフォンが取捨選択してごく限られたオペラCDを発売している。イギリスはコヴェント・ガーデンのオペラをデッカかEMIが、アメリカではメトロポリタンオペラをRCAなどが販売をしている。なので他のレコード会社が入る余地がないし、増してや出版社が入る余地などさらさらない。例えば志の高い出版社が何とか今までにないような、オペラのDVDを作成してみたいと考えても大きな壁が立ちはだかり、良質のオペラDVDの発売まで漕ぎつけることができない。ズービン・メータ指揮のDVDの発売ができたのは、たまたまバレンシア音楽祭でズービン・メータ指揮で、「ニーベルングの指輪」全曲の公演があったからで、指揮者、演目が別であったら企画が出ていたかどうか、またスペインでなくて他の場所での公演だったら、大きな壁に遮られてDVDの発売は実現しなかっただろう。こんなことは門外漢の負け惜しみみたいなものだろうけど、ある出版社などが、このオペラ公演は、きちんとした冊子と訳をつけ、DVDにはきちんとした字幕スーパーを入れるから、当社でDVDを発売させてくださいと宣言して、大手レコード会社である、グラモフォン、デッカ、RCAなどに交渉してその出版社がDVDを発売するという離れ業をやってくれないだろうか。そうすれば、出版社の蓄積された音楽の情報が生かせるし、本屋で発売することもできるのだから。まあ、こんなレコード会社、出版社どちらにとってもリスクのあることを言うのは、俺だけなんだろうなあ。でもグラモフォンから良質で日本語字幕のついたオペラDVDが発売されるのはいつのことだろう。もし大手レコード会社がその方面に力を入れていないのなら、日本の大手出版社が、オペラのDVDを発売することに興味を持ってくれないかな。
神田がふと外を見ると夕陽が射して来ていた。
こうしてネットでオペラのDVDを物色して、日曜日の午後がつぶれることがよくある。いろいろいいのはあるけど、有名な作品で、演奏に秀で、適当な価格で、しかも日本語の字幕スーパーがついているというのはほとんどない。オペラの光を消してしまわないためにも、大手出版社の英断を期待したいな。最初は採算が取れなくても、その行いに賛同して多くのファンが得られるだろうし、閉塞した社会に明るい光を齎すことができるだろうから。