プチ小説「シューベルト好きの方に(仮題)完結編」

存心館の地下の食堂で中島と井上が食事を一緒に食べてから1ヶ月して、井上は中島を大学近くのオムライス専門店ひとみに呼び出した。約束の時間に10分遅れて中島が店に入ると、井上が水が入ったグラスを飲み干していた。
「ああ、ごめん。待たせてしまったね」
「そうだよ、何も注文していないのに、水のお代わりを頼むところだった」
「何を頼む。ここのオムライスはうまいけど、さすがにジャンボは頼まないだろ」
「そりゃあ、旨いと言っても、4合のチキンライスを食べる自信はないよ。卵も4つか5つは使っているんじゃないのかな。でもお腹がすいているから、ぼくはセミジャンボかなぁ」
「じゃあ、ぼくも一緒のにしよう」
「ほう、付き合いがよくなったんだね」
「まあ、これは君のお陰でもあるんだけど」
「そうそう、君のシューベルト大好きというのは少し緩和されたのかな」
「そうだね、今から40日ほど前までは、シューベルトの歌曲集「白鳥の歌」、弦楽五重奏曲、ピアノ・ソナタ第21番を聴くのを週末の楽しみにしていたんだけど、今は違う」
「何を聴いているの」
「いや週末は出掛けることにしたんだ。京都にはお金を掛けずに時間がつぶせるところがいっぱいある。そんな京都はわれわれ貧乏学生には有難い」
「例えば、どこに行くの」
「土曜日は河原町通り四条から三条のあたりを上ったり下りたりしている。日曜日は今まで鴨川べりを歩いたり、嵐山を散策したりした。今度は嵯峨野や大覚寺の方にも行ってみたい。一日がかりになるけど、大原三千院にも行ってみたいなぁ」
「そうか、それじゃあ週末に音楽を聴かなくなったわけだ」
「いやいや、そんなことはないよ。シューベルトばかりではなくなったけど」
「どんな曲を聴くの」
「ロマン派の励ましてくれるような曲かな」
「???」
「例えば、ブラームスの交響曲第1番とかサン=サーンスの交響曲第3番「オルガン付き」なんか、最後のところで盛り上がって、頑張れよってな感じで好きだな」
「じゃあ、ベートーヴェンの交響曲「運命」「田園」第7番なんかも好きなわけだ」
「そうだね、ベートーヴェンなら、ピアノ・ソナタの「熱情」、第32番なんかもいいね」
「他の作曲家はどうかな」
「チャイコフスキーの交響曲第1番と第5番、ドヴォルザークの交響曲第7番、第8番、第9番、シベリウスの交響曲第1番、第2番、第5番。それからこれらは最後に盛り上がるのではないけど、ベルリオーズの幻想交響曲、フランクの交響曲、シューマンの交響曲第3番「ライン」、メンデルスゾーンの交響曲第3番「スコットランド」なんかは励まされているような気になる」
「そんな曲を聴いて生活に変化が出たとか良くなったことがあるの」
「今のところはないけど、条件が整えば、一番の問題は資金だけど、いろいろやってみたい。ぼくの親せきの人で、本や信奉していたタレントの言動で自分に劣等感を持つようになった人がいたんだけど、親友から人より劣っているから控え目にしようという考えはおかしいと軌道修正されて、いろいろなことを始めたんだ。山登り、楽器演奏、小説の出版、自分のサイトの開設、レコードコンサートの開催など、自分に自信がなかった時にはとてもやらなかったことに果敢に挑戦するようになった」
「知的好奇心や探究心は人生を豊かにしますよね」
「彼はそれ以外にもやりたいことがあったのだが...コロナ禍で立ち止まっている」
「でも、その人はきっと再び飛躍できる条件が整えば、もっと大きなことに挑戦するんじゃないかな」
「君もそう思うか。ぼくもそうなることを期待しているんだよ」
「ところで井上さんは卒業したらどうするんです。クラシック音楽を栄養にして生きていくわけには行かないでしょう」
「さあ、どうなりますか。卒業まであと1年あるから、週末に鴨川べりでも歩きながらじっくり考えるとしよう。意識次第で、われわれの眼前に広大な干拓地が開けるのだから」