プチ小説「チャイコフスキー好きの方に(仮題)完結編」
福江は、阪急吹田市駅で中条と待ち合わせた。福江は中条と同様に7年前から同じクラリネットのクラスでレッスンを受けていたが、正確に言うと中条は福江の3ヶ月先輩だった。年齢は中条の方がひとつ上だった。
「中条さん、わざわざ遠くまで来ていただいてすみません」
「いえいえ、いいんですよ。福江さんとは今まで、発表会直前にスタジオで2回練習したことがありますが、緊張感が高まり、学生時代に戻ったような気がします」
「中条さんは何でも前向きに捉えられるから、見習わなくては。ぼくは目先の自分のことばかりしか考えない。普通なら、発表会の会場は京都のムラタホールだし、その近くを考えるところです」
「でも、ここでいつも福江さんは練習されるんでしょう。心配せずに安心して練習できるのが何より大事ですよ」
「ありがとうございます。さあ、着きました。いつものように4階のレッスン室を利用します。受付を済まして、一緒にエレベータで上がりましょう」
ふたりがクラリネットを組み立てている間、2年前に発表会で演奏したドヴォルザークのユモレスクを掛けた。
「ぼくはいつも発表会の演奏もデータレコーダ―で録音するのですが、ここで中条さんと演奏したのも残しています。2年前にここで中条さんと練習した、ユモレスクの演奏が素晴らしくて、しばしばこうして聞くんですよ。ほら」
ふたりは、データレコーダ―から流れて来る、クラリネットの音色に耳を済ませた。
「技術的なことは置いておくとして、息がぴったり合っているという感じですね。われわれが長年習って来た成果ですね」
「そう、それが実を結んだと言えるでしょう。それは小さなものかもしれませんが、次の一歩を踏み出すための大きな力になります」
「そうですね。今日も何か残せるといいですね」
「今日は、チャイコフスキーのアンダンテ・カンタービレ1曲だけで、4つのパートに分かれるのですから、ユモレスクのように一緒に合わせることはしないで、それぞれ自分のパートを練習しましょう」
「一緒に吹かないのですね。私もその方がよいと思います。自分のパートも仕上がっていないから」
「難しい曲を無理にさせてしまいました」
「いえいえ、私はこの曲が大好きだから、いいんですよ。シャープも2つしかないし。4つとかになると運指が難しいけど」
「そうですよね、変音記号が多いと難しいですよね。ところでぼくは練習をここでいつもしていますが、中条さんはどこでされるのですか」
「最初は自宅で吹いていましたが、アンブシャーができてくると音が大きくなり、他でしないといけないと考えるようになりました。それで自家用車の中で吹いてみたりしたのですが、やりにくかった。今は、カラオケ店ですね。安くで利用できますし。福江さんはどうなんです」
「公団住宅で窓を締めきっていれば、音は気にならないと思っていたのですが、ある日張り紙で、楽器は禁止との告示がありました。それで職場に近いこのスタジオを利用するようになったんです」
「さあ、こちらは準備ができました。しばらく吹いてみますか」
スタジオでの練習を終えて、福江と中条は京都コンサートホールの小ホール(ムラタホール)に向かった。阪急吹田市駅から淡路駅を経由して烏丸駅で下車した。
「中条さん、ここから地下鉄で北山に行きますが、どうされました」
「以前、福江さんとこの辺りで待ち合わせて京都文化博物館別館まで歩いた時のことを思い出したんです」
「あそこのホールで何度か発表会をしましたが、今後はどうなんでしょう」
「やはり、舞台があって控室があるというのが、主催する側、出演者には便利なので、今後はそういうホールを利用するんじゃないかな」
「そうなんですか、ぼくはあの古い建物で演奏するのを楽しみにしていたのに」
「でも、今日演奏するホールは小さなホールでは京都で一番と言われるところだから、それはそれで楽しみなんですよ。府民ホール アルティもいいですよ」
ふたりがホールに到着すると、開演30分前だった。音合わせも不十分なまま、舞台のそでで出番が来るのを待った。
「福江さん、心配しないでいいですよ。われわれのパートは女性と一緒だし。ホールで演奏を楽しんだらいい。普通経験しないことをするんだから、ただただ有難いと思えばいいんです」
「確かに貴重な経験ですよね」
ふたりは演奏を終えて、最後列の席に座り他の生徒の演奏を聴いていた。
「でも、発表会って楽しいですね。すごくうまい人もいるし」
「それに普段聞けない演奏なんかも聴ける。われわれが演奏したのも楽しいものだった。私は思うんです。普段聞けない編曲をわれわれが演奏した。下手でも一所懸命、結果がどうであれ2、3ヶ月ひとつのことに頑張り、仲間と一緒に仕上げる。それはいろんなことに役立つんじゃないかな」
「そうですね。これからもお願いしますね」
「こちらこそ。末永くね」