プチ小説「ブルックナー好きの方に(仮題)完結編」

井上と小川は等持院を出て南方へ歩いていたが、井上が急に方向転換して北へと歩き始めた。
「あれ、このまま阪急西院駅まで歩くんじゃないの」
「その予定だったけど、時計を見るともう午後5時になる。夕食を食べてから帰ろうかと思ったんだ」
「そうだね、学食に着くころには午後5時半を回るから...それに丁度いい具合に」
「やあ、秋子さん、今帰りなのかい」
「まあ、小川さん、東門の辺りでは何度もお会いしたことがあるけれど、南門の近くは初めてだわ。この近くに何かあったかしら」
「今、井上君と等持院に行っていたんだ」
「私も等持院には何度か行ったことがあるわ。お庭が好きなの。余り人がいないし」
「京田さんは夕飯どうするの。今から、ぼくたち夕飯を食べて帰ろうと思うんだけれど。小川君と二人の方がいいのかな」
「ふふ、遠慮しないでいいわよ。小川さんとは、今度の週末に約束があるから。そうねえ、夕飯は家で食べるけど、一緒にコーヒーをいただこうかしら」
「じゃあ、存心館に行こう」

3人が学生食堂の席に着き、一息つくと小川が話し始めた。
「秋子さんは、井上君がクラシックファンでレコードコレクターなのは知ってた」
「いいえ、初めて聴いたわ。私、クラリネットを演奏するけど、名演奏家が残した名演を聴くのも好きだわ」
「京田さんはどんな曲を聴かれるのかな」
「やっぱり、クラリネットの名曲を残している。モーツァルトとブラームスが大好きよ」
「さっき、話が出たんだけど、ブルックナーっというのはどうかな」
「うーん、どうかしら。交響曲だけだから...ステレオもないし、聴かないわね」
「それだったら、この曲は聴いてみたいわとかもないの」
「よく交響曲第7番が素晴しいって聞くけど、ラジカセで聴いて楽しめるかしら。それより他の作曲家のピアノの曲や室内楽を聴いている方がいいかな」
「そうだね、ブルックナーを聴くにはそれなりのステレオ装置が必要だな。それに時間のゆとりがないと。学生時代だから有り余るほど時間があった。そうしてああでもない、こうでもないと井上君とクラシック音楽の名盤の森を散策した」
「そんな時間も持てなくなるのかな、社会人になると...そうだお二人も、京田さんは本社が京都の出版社、小川君は東京の出版社となって遠く離れることになるけれど、どうするの」
「さあ、それはどうなるのかわからない。一つ言えるのは、若い頃は休日も惜しんで会社に尽さないと...」
「小川さん、もちろん月に一度くらいは手紙はいただけるんでしょ」
「......」
「京田さん、筆不精の小川君にそれを望むのは厳しいと思う。小川君の下宿には公衆電話があるだけだから...小川君は電話が掛けられるように10円玉を貯めないといけないよ」
        注)1985年頃を想定しています
「それより井上君は故郷津和野に帰って、家業を継ぐんでしょ」
「そう、しばらくは見習い修行をしなくちゃならない。でもひとつだけ楽しみがあるんだ」
「何かしら。小川さんと定期的に会うとかかしら」
「まさか、東京と山口なんだから無理だよ。野中の一軒家という住まいだから、大音量で毎日遅くまで交響曲が聴ける」
「そうか、ブルックナーと仲良くなれる環境が整っているわけだ」
「そうモーツァルト、ベートーヴェン、バッハの室内楽を聴くようにブルックナーを安心して大音量で聴けるわけさ。他に楽しみはないけどね」
「いいじゃないか。ブルックナーに専心できる素晴しい環境だよ」
「そうさ、そういう環境でしばらくは仕事に勤しむよ。小川君も仕事頑張ってほしいけど、京田さんも大切にするんだよ」
「もちろんさ」
「井上さんもお仕事頑張って下さいね」