プチ小説「ヴェルディ好きの方に(仮題)完結編」

槍ヶ岳山荘で少し休憩を取っただけで、朝、南岳小屋を出てから歩き詰めの岩本はかなり疲れていたが、対面して話している同年齢の男性が自分と同じヴェルディ・ファンと知り、疲れているのも忘れて雨中でヴェルディのオペラ賞賛を始めた。
「あなた、ヴェルディの歌劇は、ロッシーニやプッチーニなどのイタリア歌劇の作曲家だけでなく、モーツァルト、ワーグナー、リヒャルト・シュトラウスを合わせても抜きん出ているとお考えではありませんか」
「そうですね。とにかく質の高い歌劇をたくさん作曲しているというのは素晴しいですね。どんな曲がお好きなんですか」
「やはり、最初に興味を持ったのが、「椿姫」と「トロヴァトーレ」だったので、今でもこの二つはしょっちゅう聴いています。いずれもセラフィン指揮のが好きなんですが、「椿姫」はマゼールやC.クライバーが指揮したものも聴きます。「トロヴァトーレはジュリーニもいいですね」
「私も同じものをよく、聴きますが「トロヴァトーレ」に関しては、カラヤン指揮でカラスとディ・ステファノが共演しているのが一番ですね」
「じゃあ、グランド・オペラはどうです」
「多分、あなたが言われているのは、大人数を要する「アイーダ」や「ドン・カルロ」のことを言われているのだと思いますが、どちらもカラヤン指揮がいいですね」
折からの雷雨で二人はずぶ濡れになったが、二人のヴェルディ愛はかえって高まって行った。
「私は、「アイーダ」は、アバド盤が好きですね。リッチャレッリのアイーダが好きなんですよ」
「リッチャレッリは「ドン・カルロ」「仮面舞踏会」にも出ています。そう言えば、アバドもヴェルディの歌劇で名演を残しています」
「アバドは品位に欠けると言って、ヴェルディ「椿姫」(娼婦を描いている)、「カヴァレリア・ルスティカーナ」のようなヴェリズモ・オペラそれからプッチーニのオペラのレコードを残していませんが、アバドが指揮して、ヴィオレッタをリッチャレッリが演じた「椿姫」あったらなあと思うんです」
「なるほど、それもいいですね。でも私は、C・クライバーに「リゴレット」と「トロヴァトーレ」のレコードも残してほしかった」

二人は、土砂降りの中、口の中に水が入って来ても楽しそうにヴェルディの話をしていた。
「私は、ヴェルディのオペラは劇場で見たことがありません。あなたは見られましたか」
「私は10年ほど前に、モーツァルトの「魔笛」のDVDを購入したくらいで、見る方は余り興味がありません。もともと私はインストゥルメンタルの方に興味があり、オペラや宗教曲やリートに興味を持ったのは5年くらい前からです」
「私も、最初はベートーヴェンやブラームスの交響曲でした。でも、5年前にカラヤン指揮の「ドン・カルロ」のDVDを見てから、ヴェルディのオペラに興味を持ったのです」
「そうですよね。あれを見れば誰でも凄いと思いますよ」
二人の近くに、ドーンと凄い音がして落雷があったが、気にせず好きな趣味の話をしていた。
「いろいろなレコードがありましたが、あなたはどれがお好きですか」
「セラフィンの「トロヴァトーレ」が一番ですが、ローレンガーのヴィオレッタが好きなので、マゼールの「椿姫」が2番目ですかね。あなたは」
「わたしは、カラスをあまり聴かないのですが、「椿姫」は聴きます、指揮者のジュリーニもいいですし、アルフレード役のディ・ステファノもいい。彼女の絶頂期とも言われています。なぜこの頃にセラフィンがカラスとこのオペラを録音しなかったのかと思うんです」
彼らは、槍沢ロッジまで下りて来たが、好きな趣味の話をしながら通り過ぎた。

二人が上高地のバス停まで辿り着くと、もう午後6時近くになっていたが、雨は止んでいた。東の空を見ると虹がかかっていた。
「あなたと楽しくヴェルディの話をしながら下山出来て、しかもきれいな虹が見られるんですから、また来年も来ようと思いましたよ」
「そうですね。私も4日間連続して休暇が取れれば続けたいのですが...それに昔からの夢だった本の出版もしたいですし」
「また来年もお願いますと言いたかったのですが、人それぞれやりたいことはあります。7回も槍・穂高に上られたのですから、あなたは次のステップに上がられるのもいいでしょう。あなたの代わりに、来年からはわたしが槍・穂高に登ることにしましょう」
「そうですか、よろしくお願いします。事故が起こらないよう、祈っています」
「困ったら、「トロヴァトーレ」の「見よ、恐ろしい炎を」でも歌って、自分を奮い立たせますよ」