プチ小説「バッハ好きの方に(仮題)完結編」

次の日曜日の朝、山田は幅の家を訪問した。閑静な住宅街の中でも一際大きな家が、幅一家の住まいだった。以外にも玄関に現れたのは、一郎の母親だった。
「今日はわざわざ家まで来ていただいて、ありがとうございます」
一郎が色濃い関西弁なのに母親が標準語であることに違和感を感じた山田は思わず言った。
「お世話になります。お母さんは関西の人ではないのですか」
「ええ、私は主人が東京にいる時に知り合ったんです。でも関西に住んで10年以上になるから、友人と話す時には関西弁が出ることもあります。関西弁って、温かい気がするから大好きなんです。じゃあ、主人と一郎を呼んできます。午後から主人が出掛けますが、ゆっくりしていってください」
「僕も楽しみです」

一郎の母親が出してくれたお菓子を食べていると、一郎と父親が現れた。
「やあ、わざわざ家に来てくれたのを歓迎します。職場ではいつも大人と話をしています。こうして一郎の友人と話すのはとても新鮮だと思うので、楽しみにしていたんです」
「わざわざ、僕のために、こうして時間を作っていただいてありがとうございます」
「おとーちゃん、そら、あかん、調子狂うわ」
息子の突然の発言で一郎の父親は気分を害し、普段の姿をさらけ出した。
「お前、なにゆうとんねん。こういう大切にせなあかん人とは、何と言っても、標準語でしゃべるんがええんやで」
「そやけど、いつも大阪弁で話す人が標準語で話すと、心が籠ってへん気がするわ」
「そんなことないで...山田くんはどう思います」
「ぼ、ぼくは心が籠っていれば関西弁でも、標準語でもいいと思います。使い慣れた言葉の方が感情を挿入しやすいのではないでしょうか」
「山田君の言う通りや。そやから、お父ちゃんは大阪弁で応対せんと充分に気持ちが伝わらへんで―」
「あ、あのう、僕はどっちだっていいですよ。どちらの顔も立てられるんだったら、ちゃんぽんでもいいですよ」
「山田君はうちの子と違って、機転が利くなあ。よし、ほたらちゃんぽんでいこ。ほんで君は何かレコードを持ってきたんかいな」
「ええ、小さい頃から擦り切れるまで聴き続けようと思っている3枚のレコードを持ってきました」
「ほう、それはクラシック音楽なのかい」
「ええ、本当は他のジャンルの音楽も聴きたかったのですが、よい装置で聴かせていただけるということで、クラシックの交響曲にしました。ロマン派の曲です」
「ロマン派のん。なんちゅー曲やの」
「ひとつはジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団のシューマンの交響曲第3番「ライン」それからペーター・マーク指揮ロンドン交響楽団のメンデルスゾーン序曲「フィンガルの洞窟」と交響曲第3番「スコットランド」そして最後にジョン・バルビローリ指揮ウィーン・フィルのブラームス交響曲第2番です」
「君はもしかして私がバッハしか聴かないということを知らないんじゃないか」
父親は少しむっとした表情になった。一郎が助け舟を出した。
「おとーちゃんはいつもバッハばかり聴いてるちゅーたら、山田君がロマン派の曲にもいいのがあるって、ゆうてくれたんや。ほんなら君のレコード聴かしてちゅーたら、今日もってきてくれたんやで」
「ほんなら清聴させてもらうわ」

3時間近く、3人はじっとステレオから流れ出る音に耳を傾けていた。レコードを掛け終わり、最初に口を開いたのは山田だった。
「いかがでしたか、選りすぐりのレコードを持ってきたつもりなんですが、お気に召しましたでしょうか」
「バッハもええけど、たまにはロマン派もええんとちゃう。おとーちゃん、たまには、ブラームスの交響曲も聞かせてーな」
「私は、ロマン派の音楽は感情移入が激しくて静かに淡々と事務作業をするための妨げになると思っていた。でも休日に寛いで聴く音楽は、ロマン派の心を揺さぶる、思いを駆け巡らせる、遠い昔の記憶を目覚めさせるような音楽でもいいかなと思いました」
「気に入ってもらえて、うれしいです」
「おとーちゃん、ほたら次の日曜日もロマン派でいこ」
「あほやなあ、たまに聴くからええんや。まあ、4回に1回くらいやな」
「そんなこといわんと3回に1回にして」
「ええの、バッハやないと気が散って勉強でけへんから。ロマン派の音楽はおとーちゃんのような大人になってから、自分でレコードを買うて聴けばええの」