プチ小説「ディーリアス好きの方に(仮題)完結編」
小川が学生食堂でカツ丼を食べていると、井上がカレーライスをトレイに乗せてやって来た。
「やあ、遅い昼食だね」
「生協書籍部で立ち読みをしていたら、あっという間に時間が過ぎちゃった」
「どんな本を見たの。雑誌かな、FM誌とかの」
「小説とかかな。文庫本の」
「ハードカバーは買わないの」
「たまには買うよ。どうしても新刊が読みたいこともある」
「どんなのを購入したの」
「ぼくは高校生の頃から、井上ひさし氏のファンだったから、この前に出た『吉里吉里人』(1981年刊)はすぐに購入した。それから浪人時代からイギリスの文豪ディケンズの小説を読んでいて、文庫本ではまだ出ていない、小池滋訳の『リトル・ドリット』を最近購入した。ぼくの場合、通学の阪急電車の中で読むから、コンパクトな文庫本が有難い。ハードカバーは鞄に入らないから、家や図書館で読むことになるだろう。嵩張る本を読む気になったらの話だけれど」
「他に興味がある文学とかはないの」
「実は、ギリシア悲劇に興味があって、いくつかの作品を読んだんだ」
「文庫本?ハードカバー?」
「大学図書館にあるのをいくつか」
「でも、今から2400年ほど前の話でしょ。理解できるの」
「それはシェイクスピアだって、モリエールだって同じだよ。ボーマルシェだって、ブレヒトだって」
「どんなところが面白いの。ぼくでも理解できるのかな」
「ぼくは、ミュケーナイの王アガメムノンが中心人物でその周辺の人物の関りを知ればかなりの戯曲のストーリーが理解できると思う」
「そうなのか」
「そう、まず、妻のクリュタイメストラ、アガメムノンは妻とその情夫アイギストスに暗殺される。その理由としてクリュタイメストラが主張するのは、生贄に娘イピゲネイアを捧げたからということ。トロイ遠征が強風で敢行できないため、アガメムノンが神託を仰いだところ、親族を生贄にするようにとの指示が出たためなんだが、クリュタイメストラはそれが許せなかった。クリュタイメストラはその後アイギストスと国を収めていたが、娘のエレクトラを虐待し、息子オレステースは行方不明となっていた。オレステースが成人してエレクトラとともにクリュタイメストラとアイギストスを殺害し敵討ちをするが、この一連の流れの一部を扱った戯曲がたくさんある。またギリシャがトロイに遠征するようになったそもそもの始まりは、アガメムノンの弟のメラネオスの妻ヘレンをトロイ王プリアモスの息子パリスが誘惑しトロイに連れ帰ったことが発端なんだが、ヘレンにも責任はある。そのためギリシアの大軍隊が船団で押し寄せてトロイと戦争が始まるが、トロイの英雄ヘクトル(プリアモスの息子)とアキレウスの一騎打ち、木馬による闇討ち、踵が弱点のアキレウスの死など見所がたくさんある」
「ふーん、ホメロスの『オデュッセイア』の主人公オデュッセウスが登場するのもあるのかな」
「彼はどちらかというと脇役で、悪役となることが多い。アイスキュロスの『縛られたプロメテウス』、エウリピデスの『ヘラクレス』なんかはギリシア神話から生まれた作品だけど、それよりやっぱりトロイ戦争の頃の物語が圧倒的に多い。その他、オイディプス王とその子供、特にアンティゴネーは有名だけど、の物語はギリシア悲劇のテーマとなることが多いようだ。このあたりのことを知っておくと少しはギリシア悲劇を理解できるんではないかと思う」
「トロイ王プリアモス、その息子の武将ヘクトル、その妻のヘカベー、その娘で予言能力を持つカッサンドラなどもギリシア悲劇の題材になっているね」
「そうだね。ギリシア悲劇はとても奥が深いからもうちょっといろんな文学を読んでからじっくり読んでみようと思っている。ところでこの前言ったディーリアスの音楽を聴いてみたかな」
「残念ながら、ビーチャムの「春を告げるカッコウ」と劇音楽「ハッサン」からセレナードくらいしかいいと思わなかったんだ」
「それは勿体ない。バルビローリ指揮の「アパラチア」を聴かなきゃあ」
「そうなのか。じゃあ、今度の週末に聴いてみるよ」