プチ小説「ロッシーニ好きの方に(仮題)完結編」
ところで、と川上が言って、部屋の隅に置かれてある段ボール箱の中を探し始めたので、大川は次の言葉があるまで静かにしていた。
「ああ、『大いなる遺産』はあるけど、『二都物語』と『クリスマス・カロル』は人にあげちゃったみたいだな。それに『リトル・ドリット』と『荒涼館』は実家に送ったっけ」
「何ですか。ディケンズの小説のことですか」
「大川君も少しはディケンズのことを知っているようだね」
「『大いなる遺産』『二都物語』『クリスマス・カロル』は新潮文庫から、『オリヴァー・トゥイスト』は講談社文庫から出版されているので、読みました。大学生の娯楽と言ったら、文庫本を読むくらいですから...それとラジオくらいかな」
「まあ選択肢が少ないから勉学に励めるのさ。それはさておき、ディケンズの小説は面白かったかい」
「『二都物語』はフランス革命が背景にあるので、とても重いと思いましたが、他の3つの小説は、楽しく読ませてもらいました。特に...」
「特に、『大いなる遺産』は味わい深かったんだろう」
「そうです。主人公は鍛冶屋を継ぐのだったんでしょうが、思わぬところから遺産相続の話が出て...」
「正確に言うと、そう主人公が思っただけなんだが、羽振りがよくなり、ロンドンに出て、教養も身に着ける。もともと主人公は人生に計画を持たなかった人だから、教養は身に着けるが、生活が派手になり、湯水のごとく誰からのお金ともわからない(主人公はミス・ハヴィシャムの遺産と思っていたようだが)お金を友人と使い始める。ふと気が付くと借金まみれになっている。代理人の弁護士にお金の話をすると、支払う金額が限定され、さらに...」
「そうやがて、そのお金の出所は、幼い頃から通い続けた近くの大金持ちの未亡人ではなく、幼い頃に食べ物を与えた脱獄囚の男だったことがわかるのでしたね。オーストラリアで成功して、恩返しのために送金してくれていたのだった。もうひとつ未亡人の家で知り合った、養女との交際もほろ苦くて、先がどうなるかと...」
「さらに主人公を一目みたくて、イギリスにもどって来た元脱獄囚がどうなるのかも興味津々だったろう」
「そうですね。でも、もっと大切にしたいのは、小さい頃からいろいろ気配りしてくれて、主人公が瀕死の状態になった時に看病してくれた。姉の旦那のジョーだと思います。ハーバート・ポケットとの友情も強い絆と言えますが、ジョーとのそれは物心つき始めた頃からのもので、一旦その有難みを忘れ、疎ましく思ったりもしますが、様々な辛酸を味わったのち、頼るところがなくなった時にわずかな光明を与え、しかもジョーは体調が回復するまで見守ってくれたのです。そうして主人公がもう一度人生をやり直そうと考えた時に静かにその場を去り、遠くから見守ってくれるようになる」
「そう、僕は、ディケンズがこの本を読んだ人の心に、ジョーという存在は誰にもいる。優しい、素朴な人を大切にしないと後悔するよと言っているような気がする。そこでこれは僕の希望なんだが...」
「ディケンズの小説でオペラの作曲ですか」
「その通り、ロッシーニは、24才の時に『セビリアの理髪師』を、37才の時に『ウィリアム・テル』を作曲しているので、大川君も40才でも50才でもいいから、台本を書いてくれる人を見つけて」
「台本は自分でなくてもよいのですか」
「例えば、ヴェルディは、ピアーヴェという優れた台本書きがいてくれたおかげで、『椿姫』『リゴレット』『シモン・ボッカネグラ』などの優れた作品が残せた。ワーグナーのように台本も自作でやるというのは少ないんじゃないかな」
「そうですか。川上さんに夢を与えられたという感じです。励ましていただいて、ありがとうございます」
「期待しているから、でも焦らなくていいからね」