プチ小説「ラフマニノフ好きの方に(仮題)完結編」
南田が国鉄柘植駅のホームに降り立つと、人影はなかった。ホームに待合室があったので、そこに入った。しばらくすると、女性が歌っているのが聞こえて来た。南田の後からやって来たようだった。南田は耳を澄ました。
「あっ、ヴォカリーズだ。クラシックの歌手という感じじゃなくて、ポップス歌手という感じで軽やかだな。そう、音域が広いオカリナがあって、それで演奏しているという感じだな。僕も一時期、オカリナに凝って、専門店で数個のオカリナを購入したことがあったっけ。でも調性が固定しているということと音域が狭いということで、演奏できる曲が限られている。しかも音の強弱がやりにくいということがあり、すぐに諦めたのだった。懐かしい、愛らしい音がするのにとても残念だったが...おやっ、次は、僕の大好きな、ベニー・グッドマンのクラリネット演奏で有名な「メモリーズ・オブ・ユー」だな。そう言えば、フランク・シナトラが歌っていたっけ。2つのバージョンがあって、僕は、しっとりしている方が好きだな」
やがて、折り返し運転の電車がホームに入って来た。まだ発車まで10分ほど時間があったので、周りを見回して誰もいなかったので(歌を歌っていた女性は電車に乗っていた)、今度は南田が少し大きめの声で、ヴォカリーズを歌い出した。
裏声で歌っていたので女性の耳に届いたようで、その女性はもの珍しそうな顔をして、南田のところにやって来た。
南田が歌い終えると、その女性はにっこり微笑んで南田に話掛けた。
「私のポップス調の「ヴォカリーズ」も自分では珍しいと思うんだけど、あなたは裏声で歌うのですね」
「前から好きな曲なので何とか歌えないかと思っていたんだけど、女性ボーカル(ソプラノ独唱)用の曲なので男性には不向きなんだ。何とか歌えないかと思って考えだしたというか、でもあまりにも品がないかな」
「いいえ、何とか歌ってみようと思うところがすごいわ。ソプラノ独唱の他にフルート、ヴァイオリン、チェロなんかで演奏するのは聞くけど、男性ボーカル、しかも裏声で最初から最後まで歌えるなんて、尊敬するわ」
「ありがとう。でも、君の歌声も素敵だったよ。君の歌に触発されて、歌ってしまった」
「ふふふ、待ち時間が長いし、売店も閉まっているから何もすることがない。女の人が歌っているから、いっちょう、おれも歌ってみるかという感じかな」
「そうだね。こういう静かで、空気が澄んでいるところだと自分の声もクリアに聞こえる。僕はまったくの素人だけど、人から歌は上手いと言われているんだ。それに...」
「何か楽器をしているんでしょ」
「そう、クラリネットをね。習って5年になるんだ。クラリネットだと音域が広いし、ヴォカリーズの楽譜もあるだろうと思っていたんだけれど」
「ないの」
「そう、クラリネットには向いてないと思われているのか、フルートやヴァイオリンなら見たことがあるんだけど」
「私は、クラリネットもいいと思うけど...それから裏声も」
「ははは、僕の下手な歌ならいくらでも聞かせてあげるけど、今日みたいなシチュエーションでないと無理かな」
「そうねぇ。周りに人がいると、好き嫌いもあるし、自由に歌えないかな」
「ところで君は歌手なの」
「まさか、あなたと同じあのシチュエーションに絆されてというか、誘われてというか、乗せられてというか、自然とヴォカリーズを歌ってしまったの。さっき、夜の停車駅をNHKFMで聴いていたし」
「なるほど。君も僕もこういう雰囲気の中でなんとなく歌いたくなり、最後までヴォカリーズを歌ってしまったというわけだ。でもいつも歌いたくなるの」
「私は親戚の家に行った帰りなの。だから1年に1回ここに来るかな。大概お昼に帰るし。こんなに星空が美しくて、空気が澄んでいて、FMでヴォカリーズを聴いた後で...こういうのが重なったから、思わずヴォカリーズを歌ってしまった」
「そうだね、大都会と言わずとも喧噪の中では起こりえないよね。夜の静寂がないと」
「そう、それに音って聴くばかりじゃなくて、発することも楽しいと思うわ。またあなたの歌声を聴きたいわ」
「それじゃあ、たまにここにくるかな」
「そうね、またお会いできればうれしいわ」