プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生34」

小川は秋子との結婚式の前日、荷物の整理のため3年余り暮らしたアパートにいた。
<明日の朝までやれば、何とかなるだろう。昨日までは新居の準備で忙しくてこちらの片付けができてなかった。
 明日の式が終わればしばらくは留守にするし、帰って来てからだとまた先延ばしになるから...>
小川がふと目をやると「エドウィン・トルードの謎」が段ボール箱の上に置かれてあった。
<この小説は、未完であるし、分量もそれほど多くないので果たして読むべきものなのか...。でも、以前、漱石の
 未完の小説「明暗」を読んだが、充分楽しめた。「リトル・ドリット」の翻訳をされた、小池滋さんが
 きっとわかりやすい訳で登場人物に生命を吹き込んでいるだろうから、「マーティン・チャズルウィット」を
 読み終えたら、是非読ましてもらおう。でも、「マーティン・チャズルウィット」がなかなか面白くならないのは
 困ったものだな。僕の場合、愛着を持てる登場人物が出て来ないとのめり込んで行けない。「マーティン・チャズル
 ウィット」は、老マーティン、若マーティン、ペックスニフとその二人の娘をはじめ出て来る人出て来る人みんなが、
 悪い人ばかりなんだから。風采の上がらない、トマス・ピンチは善人に描かれているけれど...。その人たちがどう
 なろうとかまわないじゃないかという気持ちになる。ディケンズ先生の小説には善良な人がたくさん出て来て、
 その人たちが難局を乗り越えるパターン(場面)が多く出て来て楽しませてくれるのだが...>
 机の上に目をやると、先日百万遍の古本屋で購入した、「Dombey and Son」(ドンビー父子)が目に入った。
<大学時代には留年しないようにと語学の勉強はきちんとして来たつもりだけれど、ペーパーバックを読める程の読解力は
 ない。よく、学生時代にペーパーバックを読んでた友人が、「ラヴ・ストーリー」から始めるといいと言っていたけれど、
 僕も読んでみようかなぁ...>
小川はそう言いながら、その洋書の最初のところを読み始めたが...、睡魔に襲われ、夢の世界に入って行った。

夢に出て来たディケンズ先生は開口一番、
「まずはご結婚おめでとう、秋子さんとの明るい未来を願っているよ」
と言った。そして小川が礼を言う間もなく続けた。
「でも、忙しいからと言って、私の著書を手に取ることがなくならないようお願いしたいね。原文で私の作品を読むことを勧めては
 みたが、やはり内容が理解できないのに無理して洋書を購入するより、翻訳されたものを読んでもらった方が私の考えをより深く
 理解してもらえるように思う。今、翻訳のない作品については翻訳されたものが出るまでは我慢してもらうしかない。ところで
 小川君は、私の本を読まなければ、私に会えないと(夢の中に出て来ない)と思うかもしれないが、そのことは心配しなくていいよ。
 私は小川君と秋子さんが気に入ったから、これからもしばしば小川君の夢の中に出て来て楽しい時間を過ごさせてもらうよ。
 で...、「マーティン・チャズルウィット」のことだが、取り敢えず最後まで読んでから、感想を聞かせてくれたまえ。きっと、
 小川君の期待は裏切らないから」
「......」