プチ小説「ストラヴィンスキー好きの方に(仮題)完結編」

小川が、バレエ音楽のことや刺激的なサウンドの音楽のことを中古レコードを漁りながら考えていると、大学時代の友人の井上が声を掛けて来た。
「やあ、小川さん、元気にしているかい」
「やあ、久しぶりだね。大学を卒業して3年だから、3年ぶりだね」
「そうだね。東京での生活はどうだい。刺激的なことが周りにいっぱいある生活というのは」
「まあ、それはお金があってのことで、東京の生活での刺激的なことと言えば、家賃をはじめ物価がすべて高くて、生活を切り詰めないと生活できないということかな」
「それが刺激的なの」
「そう、今まで考えなかったようなことを考えないと生活できない。例えば、ひと月2万円で食費を賄うとか。栄養バランスを考えて、少ない食費でなんとか健康を維持するとか...」
「いろいろ大変だね」
「今まで、関西に住んでいた人が知り合いもいない大都会で行き詰らないように生きていくには、必要なことだと思うよ」
「でも、何か困ったことがあれば、周りに住んでいる人が助けてくれるんじゃないかな。それより学生時代のように音楽は聴いているの」
「学生の頃は井上さんと一緒にクラシックの名曲を聴いていたんだが、一通り聴いてしまった気がして、最近は現代音楽や民俗音楽なんかも聴いてみたいなと思っているんだ」
「そうなのか、君の中ではクラシック音楽は大切なものではなくなったのかな」
「えーっ、他の音楽を聴いてはいけないと君は言うのかい」
「君とは長い付き合いだから、ある程度君のことを知っているし、熱くなっている君より冷静にそうなった君の心理を分析できるかもしれない」
「面白そうだから、聞かせて」
「じゃあ、ここを出て近くの茶店にでも行こうよ」

二人が、新宿駅近くの喫茶店の席に着くと井上が話し始めた。
「さっき中古レコード店で声を掛けたけど、昔と小川さんの様子が変わっていたんで、かなり躊躇したんだよ」
「栄養失調でかなり体重が減ってしまったし、毎日遅くまで残業するからいっぺんに年を取ってしまった感じなんだ」
「顔を見ればそれがよくわかるよ。でもそのストレスを解消するために、刺激的な音楽、刺激的な趣味に変えると小川さんが小川さんでなくなっちゃうんじゃないかな。君は高校時代、いろんな音楽、特にフォークソングにのめり込んで、その歌詞の暗記で夜間の大切な時間を費やしていた。浪人時代になってそれをやめてクラシック音楽の名曲を聴き込むようになり、生活が落ち着いてきた。大学時代は、落ち着いたクラシック音楽の名曲をBGMにして一日中、語学や専門科目の勉強をしていた。しかしサラリーマンになって、東京に出て来るといろいろな刺激的なものが目に入り、食指が動き出す。テレビ、映画、コミック、アニメ、イラストなど、たまにならいいと小川さんは言うかもしれないけど、地味な中にも味わいがあるクラシック音楽を友としながら、デスクワークをするというのとまったく別の世界だ。それから多分、クラシック音楽も好奇心が先に立って、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの音楽は余り聴かなくなって、後期ロマン派以降の音楽を手探りしながら聴いているという感じなんじゃないかな」
「井上さんから見ると、そんなにひどい状態に見えるのかな」
「いろんなことに興味を持つことは悪いことじゃないよ。ただ選ぶ対象は慎重に考えた方がいい。それが自分の生活引いては人生にどれだけ影響するかを。自分の血肉になるものに多くの時間を割くのはいいけど、何も残らない刺激を求めるだけのものに時間を割くのは止めた方がいい」
「例えば、ストラヴィンスキーやバレエ音楽はどうかな」
「ぼくはたまにストラヴィンスキーの「春の祭典」を聴くのはいいと思うけど、ムリしてストラヴィンスキーの他の作品を聴くのは賛成しない。バレエ音楽も、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンや初期の頃のロマン派の音楽のような心を動かされるようなものがないから、無理して聴く必要はないじゃないのかな」
「でも、いろいろ聴いてみて、取捨選択するのもありじゃないのかな」
「僕は小川さん以上にクラシック音楽にのめり込んで、聴いてきたけど、専門的な知識がないから、自分の耳だけが頼りだった。マーラー、ブルックナー、フランスの近代音楽、新ウィーン学派(シェーンベルク、ベルク、ウェーベルン)なんかも主だったところは聴いたけど、マーラーの交響曲第3番とブルックナーの交響曲第7番と第9番くらいしか琴線に触れるものはなかった。たまに知的好奇心を活動させるのはいいけど、いつも新しいものばかり求めていたら切りがない。クラシック音楽をデスクワークのためのBGMと考えるなら余りのめり込まない方がいい。他の趣味も同じことが言えて、探究にのめり込みすぎると本分の勉強や一番したいことに割く時間がなくなってしまう。小川さんなら、モーツァルトやベートーヴェンの名盤を聴きながら、語学や法律の本を読むのが似合っているんじゃないのかな。僕もそれを続けてほしいいし。あれっ、もうこんな時間か。今夜のうちに大阪まで帰らないといけないから、失礼するよ。今度会う時には、学生時代のような憧れに満ちた若々しい小川さんの顔を見たいな」
「わかった、君の期待を裏切らないように頑張るよ」