プチ小説「遠い昔の話」
正雄が最近見方を覚えたばかりの時計を見ると、時計は午後1時を指していた。
「もう少ししたらお母さんが病院からタクシーで帰って来るから、そろそろ公園まで行こうか」
そう正雄の父親が言うと正雄は頷いて、ひとつ年下の弘樹の顔を見た。弘樹は言った。
「おにいちゃん、ぼく、妹の顔を見るの初めてだよ」
「ぼくもそうだよ。ぼくはお父さんに似ていると言われて、弘樹はお母さんに似ていると言われる。お父さんは妹を何度か見たんでしょ。どっちに似ていたの」
「うーん、まだ、生まれたばかりだから、わからなかったよ。これからずっと一緒にいるんだから。みんなで考えたらいいよ。さあ、急いで行かないと、お母さんがタクシーから下りてるかもしれないぞ」
「そうだね、急がなくっちゃ」
三人が玄関の引き戸を開けてしばらく歩くと公園に上がっていく、手作りの階段があった。厚さ数センチ、横1メートル縦20センチ位の板を2枚立てて2本の鉄の杭を両端の近くにうち込んで固定した階段が20段ほど公園まで続いていた。正雄と弘樹が上まで上がると左手の方から、タクシーがやって来た。正雄が住む木造の官舎では家の前の路地までタクシーが入られないので、公園まで入って来て、乗客を降ろすことが多かった。
「今、丁度着いたところだね。さあ、お母さんに声を掛けて」
「お母さん、しんどくない、だいじょうぶ」
「にいちゃん、長いこと留守にしていたけど、あしたからはそばにいるからね」
「わあー、かわいいね。女の子なの」
「そうよ、弘樹。名前は、ゆりかかおりにしようかと思っているのよ。今のところは、かわいい妹と呼んでね」
かわいい妹と四人はしばらくその場にいて、言葉を交わしていたが、7月下旬だったため、額に汗がにじんで来た。
「あんまり、ここにいると熱射病になってしまう。赤ちゃんがまた病院に戻らないと行けないということにならないように、家に戻って、扇風機に当たりながら話すとしよう」
父親がそう言うと、正雄は先頭に立って階段を下りて行った。
四人が冬は炬燵として使うテーブルに落ち着いたのは、部屋の隅にタオルケットとバスタオルでこさえたベッドに赤ん坊を寝かしてからだった。赤ん坊がおとなしくしていてタクシーを下りてから一度も泣かなかったので、これは疲れから来ていると考え、早くベッドに寝かした方がよいと両親が考えたからだった。母親が台所でお茶の用意をして戻ってくると、正雄が話し始めた。
「妹のそばにいていい」
「ええ、もちろんよ。でも、まだあなたたちも幼いから、哺乳瓶でミルクをあげたりはできないわ」
「ふたりには、かわいい妹がいい子になるように祈ってもらうといいよ」
「そうね。ふたりとも、いい子になりますようにと祈っていてね」
「はーい、いい子になりますように」
「はーい、とってもいい子になりますように」
「じゃあ、ふたりもお昼寝にしましょうか」
母親がふたりの寝床の用意をするとふたりは間もなく眠りについた。
「でも正雄は2年もしないうちに幼稚園だわ。この調子だと小学校、中学校はあっという間でしょうね」
「そうだね。でもいろいろ楽しみが続くから、きっと振り返って見ると、よかったなあと思うんじゃないかな」
「そう、そうよね。きっと...」