プチ小説「遠い昔の話2」

福居が職員室前の廊下にやって来ると、先に来ている者がいた。胸のバッジを見ると3年生の生徒のようだった。その先輩にあたる人は何度も立たされたことがあるようで、親切にやり方を教えてくれた。
「やあ、昨日は一人で寂しかったけど、今日は連れがいるんだね」
「あ、あなたは...立たされているんですか」
「そうだよ。ぼくくらい、頻繁に立たされるようになると手際が良くなるんだ」
「そうですか。そしたら、何かいいことがあるんですか」
「それは、残念だけどないね。バケツを持って、1時間我慢しなければならないのは同じだし。誰かが気を使って、差し入れてくれることはない」
「頻繁に立たされると言われましたが、どのくらいですか」
「そうだなー、週に1回はこうして立っているね」
「どんなことをした罰でしょうか」
「まあ、いろいろあるけど、やっぱり遅刻が多いかな」
「他には、どんなのがあるんでしょうか」
「早弁、宿題するのを忘れたりとか」
「喧嘩したりとか、クラスメイトの弁当を食べたりとかはしないんですか」
「ちょっと失礼だと思う。ぼくは人に迷惑を掛けるようなことはしないんだ。ところで君は遅刻かな、それとも友だちと喧嘩したのかな」
「いいえ、僕の場合、先生との意見の違いというか」
「ふうん、先生と意見が合わなかったのか。どんなことでだい」
「実は、1年生の時の音楽の先生が男の先生で細かいことを言われない先生で、僕は大声で歌を歌っていました。音楽の授業も大好きでした。でも2年生になって、音楽の先生が女性に代わって、音楽が嫌いになったんです」
「ほう、それはなぜなのかな」
「例えば、1年生の時はドレミファソラシドをそのまま歌っていれば良かったのですが、今の先生は、例えば、変音記号で調が変われば、その音階で歌わなければならなくなったんです。大声で楽しんで歌うどころではなくなり、おどおどしながら手探りで歌うようになりました。間違ったら、叱られると思って、恐る恐る小さな声で歌うようになりました」」
「そうか、考えながら歌うとそうなるよね。でも学習指導要綱がそうなら仕方がないんじゃないかな」
「と言いますと」
「1年生は生徒に小さなことを考えさせないで思いっきり歌わせる。でも2年生位なったら、理論も難しいことを覚えさせ、楽器も難しい演奏をさせる」
「僕は、笛を2度忘れたために立たされたのです。笛で吹く曲が余りに難しくて...練習をしないととても演奏できない。家は練習できる環境じゃないから。学校に残って練習しなけりゃならない。でも人に聞かせられるような演奏ではないんです。そんなことが積み重なっているので、このまま行くと本当に音楽の授業を休まなければならなくなります」
「そんなに自分を追い込まなくてもいいよ。なんなら担任の先生に相談してみたらどうかな」
「あなたは相談したことがあるのですか」
「もちろんないさ。でも悩みを抱え込むと膨張していくだろうし、たまにはガスを抜いてやらないと。先生に悩みを打ち明けるのが嫌なら、休日にちょっと出掛けて気晴らしをしてもいい。とにかくこの嫌な中学2年生を乗り切るんだ」
「そうしてあなたは乗り切られたんですか」
「さあ、どうかな、遅刻して立たされるのは仕方がない。でも先生に反抗したりして内申が下がらないようにしないとね」
「内申って、どのくらいウエイトを占めるんですか」
「わからない。でも、美術や音楽がゼロや1では悪い印象が残ってしまう。試験というのは全部を残すというものではなく、一部を落とすというものだから、細かいことに気を付けないと生き残れない。今はいいけど、内申書に反映される3年生になったら気持ちを切り替えて頑張って。笛をわざと忘れるなんて、しない方がいいよ。さあ、もうすぐ1時間経つからそろそろ帰っていいよ。バケツは僕が片付けるから」
「あ、あなたは...」
「ああ、名乗るのが遅くなったね。ここの常連で、たまにここの当番もしている吉田というものさ。じゃあ、気をつけて帰って」
「あ、ありがとうございました」


※ これは、昭和48年頃の話で、最近では職員室前で立たされることは余りないと思います。