プチ小説「遠い昔の話4」

小学生の頃、スーパージェッター、宇宙エースや遊星仮面などのSFアニメ・ファンだった福居は、中学に入ると、当然のこととして少年コミック・ファンとなった。当時の中学校は、今もそうかもしれないが、誰かが1冊の少年マガジンや少年サンデー(何故か福居の中学では、少年ジャンプは流行らなかった)を購入して、みんなで見るという感じだった。週刊誌だけでなく、単行本も数多く生徒の間を行き交っていて、ちばてつやファンの福居は、「ちかいの魔球」「紫電改のタカ」「ハリスの旋風」を級友から借りて読んだ。丁度、「あしたのジョー」が少年マガジンに連載されている頃だった。
福居の母親は書店のパート従業員で、子供のためになると思って、広辞苑や百科事典を購入したりしたが、息子が買うのは、「天才バカボン」などの赤塚不二夫のギャグマンガか、「巨人の星」「男どアホウ甲子園」などのスポ根マンガばかりだった。母親はよく息子に言っていた。にいちゃんが、子供向けでもいいから、世界の名作の単行本を買ってくれたらいいなと思うんだけど...もちろん、チェーンスモーカーのようなマンガマニアの福居に聴く耳はなかったが。

ある日、福居が家に帰ると、玄関の入り口近くに福井の背丈位のスチール製本棚と単行本が10冊ほど箱に入れられていて、それが数個あるのが目に入った。奥に母親がいるようだった。
「あら、にいちゃん、帰っていたの。お帰りなさい」
「ただいま。お母さん、ここに本があるけど、誰が読むのかな」
「お母さんが勤めている書店で、少年少女向けの文学全集が置かれているのを見て、その半分くらい買ってもいいかなと思って。お母さんね、中学生時代は戦時中だったからほとんど世界の名作が読めなかったの。世界の名作の話を聴いて、いつか読んでみたいと思っていたの。いきなりハードカヴァーや文庫本は難しすぎるから、子供向けの文学全集で肩慣らしをしようと思ったのよ」
「えっ、それじゃあ、この本はお母さんが読むために買ったの」
「まさか、おにいちゃんやよしおが読んでくれたらうれしいなと思って買ったのよ。みちこにはまだ早いけど」
「でも、ぼくにはそんな時間はないよ。毎週、少年サンデーと少年マガジンを読まないと友だちと会話ができない。それに友だちから借りている単行本も5冊あるんだ。マンガで精一杯だよ」
「そうかしら。ところで、にいちゃんはケーキとアイスクリームがあったら、どちらが食べたい」
「そりゃー、難しい問題だけど、両方食べても問題が起こらないなら、両方いただくと思う」
「そう、じゃあ、本も同じじゃないのかな。ご飯やおかずにあたる文学書もたまには読む、ケーキやアイスクリームにあたるマンガも時々読むというのもいいんじゃないの」
「でも、僕、世界の文学と言われても何も知らないから、イメージがわかないよ。その頃の街並みや乗り物が頭に浮かばないし、日本の江戸時代と同じ頃の外国人がどんな格好をしていたが想像もつかない。そんな人たちが会話しているところなんか想像できないよ」
「まあ、そういう考え方もできるけど、問題はそれをやってみて慣れることじゃないかしら。最初は問題に突き当たるかもしれないけど、いろいろ訊いたり、調べたりして頭の中で再生してみる。そうして物語の中の登場人物が生き生きとしてきたら、読むのが楽しくなるんじゃないかしら」
「お母さんは、誰の小説を読んでほしいの」
「この文学全集の広告を見た時にそれぞれの作家の作品をまとめてみたの。そしたらイギリスのシェイクスピアとディケンズが5冊ずつ、フランスの大デュマが4冊、ユーゴーが2冊といったところかしら」
息子が身を乗り出して来たので、母親はうきうきとした顔をして話した。
「夏目漱石もイギリス文学を研究したから、にいちゃんもシェイクスピアやディケンズをまず読んでみたらいいと思うわ」
「僕、『ロメオとジュリエット』「ベニスの商人』『ハムレット』は聞いたことがあるけど、ディケンズというのは知らないなぁ」
「じゃあ、ちょっと、見てみましょうか。ほら、『大いなる遺産』ディケンズって書いてあるわよ」
「へえ、表紙絵もあるし、最初の2ページにカラーの挿絵が入っている。「この物語の主なる人々」のところで、5人の登場人物を紹介している。挿絵もたくさんあって15枚もある」
「興味を持ってくれたの」
「まずは登場人物のところだけでも見てみるかな。本棚に移すんなら、手伝うけど」
「それじゃあ、お願いしようかしら」

それでもマンガマニアの福居がマンガなしで一日を過ごせるようになるのは高校に入学してからだった。そしてディケンズやシェイクスピアの文庫本を読むのはそれから5、6年経ってからだった。