プチ小説「遠い昔の話5」
この春に小学4年生になった三郎には、大きな悩みがあった。それは2輪の自転車に乗れないということだったが、弟は小学校に入って補助輪なしで乗れるようになっていた。三郎の家には、子供用の自転車は一台しかなく、最初の頃は、2人の息子が希望するように、休日の午前中は弟が利用し、午後からは父親が補助輪を付けて兄が利用できるようにしてくれた。そうした休日が2、3ヶ月続いたが、いつまでも補助輪が必要な兄に対して、両親は何とかしてやらないとと思った。
そこでまず父親は、兄弟をサーカスに連れて行くことにした。空中ブランコ、玉に乗りながらのジャグリング、ピエロのパントマイムなどどれも兄弟を楽しませるものだったが、一番兄弟の印象に残ったのが、球体をした鉄の枠の内側に金網を張り巡らされた中を縦横無尽にバイクが走り回るというアトラクションだった。父親と兄弟が家に帰って来ると、母親はお茶を入れて、どうだった?楽しかった?と尋ねた。
「うん、楽しかったよ。空中ブランコもすぐ近くで見るとほんとうに迫力があったよ」
「そう、他にはどんなのがあった」
「テントの中ですごい音がしたから、記憶に残ったんだけど、バイクの...」
「バイクがボールの中を走るんだよ。すごいスピードで走るから、逆さになっても落ちないんだ」
「それに手を離したりして、とにかくバイクの曲芸が一番面白かった」
「ああいう、丸い立体のことを、ボールとは言わないで、球と言うんだけど、みんなが走るように地面を走るだけじゃなくて、あんな風に走れたらいいなと思わないかい」
「道路を走るだけじゃなくて、球の中を走るの。それだったらすごいスピードで自転車を走らせないといけないね」
「いや、ああいうのをやるのは自転車では無理だな、バイクでないと」
「バイクだったら、四角や三角でも走れるの」
「立方体や三角すいは無理だな。でも二輪車に乗れるようになったら、いろんなことができるよ」
「どんなことができるの」
「今、三郎は補助輪を付けているけど、これだとせいぜい公園でしか乗られない。でも補助輪が取れて、安定して走れるようになると舗装された道路を走れるようになる」
「それだと友だちの家にも行けるね」
「もちろん、そうして時間があれば隣の町、隣の市にだって行けるようになる。中学生になって、もっといい自転車に乗るようになれば京都にだって行ける」
「お母さんは、小学生の頃、戦時中だったので自転車の練習ができなかったの。もし、こんな時自転車に乗られたらという場面が何度もあったわ。友だちとサイクリングなんて素敵じゃない」
「サーカスのようにバイクに乗って球体の中を走り回るのは、今は無理だけど。訓練次第では、三郎が三角すいの中を走り回るようになれるかもしれないぞ」
「あなた、それはいくらなんでも無理よ。でもこれから補助輪を外して練習をしてみてうまく行ったら、三郎の前に大きな世界が開けるのは間違いないわ。今からやってみたら」
「そうだね、頑張って見るよ」
父親が納屋の前で子供用の自転車の補助輪を取り外すと、父親と兄弟は5分程歩いて近くの公園に行った。
「それじゃあ、ちょっと説明するから聴いてて。今から三郎は補助輪のない自転車に初めて乗るんだが、足が何とか着くとは言え、心細いだろう」
「うん」
「だから、お父さんがうしろの荷台をつかんでいてあげる。安心してペダルを踏めばいい。公園の端まで行ったら、また元のところに戻って同じことをする。何度か繰り返しているうちに感覚を掴めるだろうから、そしたらお父さんの手が必要なくなる」
父親の説明を聞いてから、三郎は公園の端に行き、父親から、そら行くぞと言われてペダルを漕いだ。公園の反対の端に着くまで何の抵抗も感じないまま自転車を漕ぐことが出来て、父親の励ましの声が段々遠ざかっていく気がした。三郎が後ろを振り返ると父親はスタート地点にいて、にこにこ笑っていた。
「最初は荷台を押していたけど、ひとりで走れそうなので手を離したんだ。それだけ走れれば問題ないよ。あとはしばらく公園の中で走ってみて、自信が付いたら、アスファルトの道を走るといい」
「兄ちゃん、遠くに行けると楽しいよ。でもぼくはあまり乗られなくなるかな」
「はは、ケンカしないように今度のボーナスでもう一台自転車を買ってあげるよ。でも車には気を付けるんだよ」
「はーい」