プチ小説「遠い昔の話6」
福居が、上高地のバス停に着いたのは午前7時頃だった。近くの食堂で朝食を済ませて、涸沢方面に歩き始めたのは午前7時30分を回っていた。
<40才を過ぎて登山を始めたくなって、近くの山に登り始めた。最初は金剛山、続いて隣の大和葛城山。それから他の山にも登りたくなって、ガイドブックを購入した。大台ケ原、伊吹山、御在所岳、藤原岳なんかに登って見たけど、もっと高い3000メートル級の山に登りたくなった。今日、こうして上高地まで来たけれど、上高地のガイドブックは買っていないし、どこまで行くかというのは決めていない>
明神まで行く途中、出会った人の装備を見ていたが、登山の装備をした人と観光で来た人が半々くらいだった。
<徳沢までは革靴でも行けるだろう。僕は一応登山靴を履いて、リュックに食料、水、雨具などを入れているけど、日帰りだからそれほど遠くまで行けないだろう。涸沢までの往復はとても無理だから、横尾から涸沢へ向かう道に入って、1時間ほど歩いたところで帰ることにしよう。そうして来年、涸沢の山小屋で一泊すればいい>
福居はそれまでに2度上高地に来たことがあったが、大正池から明神までの範囲内で、それより先へは行ったことがなかった。徳沢を過ぎてしばらくすると少しでも先に進むことしか考えられなくなり、広場のようなところでたくさんの人が休憩しているなと考えるだけで、そこが横尾山荘前だと意識せずに通り過ぎてしまった。そこが横尾であることに気付いたのは、槍ヶ岳方面に30分程歩いたところにある槍ヶ岳方面の表示を見てからだった。
<うーん、よく考えるとあそこには橋があったし、その横尾大橋を渡って、涸沢の方へと向かわなけれなならなかったんだった。今日は木谷橋まで行くつもりだったんだが。まあ、今更引き返すわけには行かないし、このまましばらく歩いてみよう。でも今回来たのが、まったく無駄骨になってしまうんだろうか>
それから福居が1時間余り歩くと、山小屋が見えて来た。
<ガイドブックがあれば、山小屋があるのがわかったのに。もしあと30分歩いて何もなければ折り返していただろう。槍沢ロッジというのか。食事もできるようだ。おでん定食をいただくかな>
福居はおでん定食を食べ終えてお茶を飲み終えると、時計を見た。
<今、午後1時だから、そろそろ帰途に着いた方がいいだろう。午後6時のバスが最終だから。でもあと10分くらいはここにいてもいいかな。ちょっと槍ヶ岳の方へ登ってみよう>
福居がしばらく歩くと槍ヶ岳の穂先が見えたのでカメラに収めたが、ほんの先端部分が遠くに見えただけなので、時間があれば、もう少し登ったのにと呟いた。そこからしばらく戻ると広場に単眼鏡が置かれてあって、槍ヶ岳の方に向いていたので、福居は、もしかしたらと思って、単眼鏡を覗いてみた。
<今日は天気が良くて、青空がきれいだな。おお、これはすごい。槍ヶ岳の先端のところがきれいに見える。何か梯子のようなものが見えるぞ。そうだ、梯子だ。人がそこを登ったり下りたりしている。ここからどのくらいあるのかな。確か槍沢ロッジから5時間半じゃなかったかな。槍ヶ岳山荘の手前の山小屋からそれくらいかかると書かれてあったような。こりゃー、予定を変更した方が良さそうだぞ。涸沢に夏に登っても仕方ない気がするし、秋の紅葉の頃は2つの山小屋のどちらかに泊まるのも難しい気がする。体力さえつければ槍ヶ岳は登れそうだし、もしかしたら穂高にも足を延ばせるかもしれない>
帰途、福居は槍ヶ岳登山のためにいくつかのことをやってみようと考えた。
<ひとつは何よりも体力をつけることだけど、これは職場に空手の指導者の人がいるから、1年ほどで槍ヶ岳に登れるくらいの体力をつけるために何をすればいいか聞いてみよう。そうしてある程度、体力がついたら、比良山に登ってみよう。8時間くらいのコースがあるから体力をつけるのに丁度いい。それから遭難しないようにガイドブックを見て無理のない計画を立てよう>
福居は目的がはっきりとしたので、うきうきとした気分で上高地のバス停へと急いだ。