プチ小説「遠い昔の話7」
福居は、高校時代にウエスト彗星を見て以来、天文ファンになり、いくつかの天体ショーを見て来たが、口径100ミリ以上の望遠鏡を持たなかったため、天体観測は肉眼で見るか、一眼レフカメラに200ミリの望遠レンズを付けて撮影するかしかなかった。もちろん簡易赤道儀も持っていなかったため、ガイド撮影もできなかった。福居が一番残念に思ったのが、1986年に最接近したハレ―彗星で、福居が就職して1年後だったので、ツアーに参加することもできずに一生の悔いを残すことになった。数年に一度くらい観測のチャンスがあった月食は楽しみにしていたが、10倍ほどの双眼鏡も持っていない福居は遠くにある月が翳り赤銅色になるのを見るしかなかった。そんな欲求不満が募っていたので、1997年の年が明けて、ヘール・ボップ彗星の記事が新聞に出て、4月には最接近すると聞いて、落ち着かなくなった。実際2月の終わりに空を見上げると彗星が見えて、彗星の尾もしっかりと見えた。明るい彗星なので、写真も撮りやすいとの情報も得たので、支払いはローンですることにして、松屋町(まっちゃまち)近くの天文ショップを訪ねて、望遠鏡を購入することにした。
「こ、こんにちは、忙しいところすいませんが、ぼ、望遠鏡を売ってほしいんですけど」
「かなり緊張されているようですが、別に私は偉い先生ではありませんし、ただの店員と考えていただいたらいいですよ」
「でも、社長さんでしょう。それにそのとても立派なお髭は威圧感がすごいです」
「そうですか。それなら剃りましょうと言えたらいいんですが、気に入っているので...」
「ところで、今、彗星がよく見えます。それで望遠鏡を買いたいと思ったんですが」
「そうですが、それは残念でしたね」
「ざ、残念なんですか」
「そうです、望遠鏡は発注生産なので、完成してご自宅に届くのは半年後です。ヘール・ボップ彗星最接近の時には一等星位の明るさになりますが、望遠鏡が届くころは三等星位になります」
「うーん、それでは買う意味がないと言えます」
「確かにヘール・ボップ彗星目当てなら、止めといた方がいいということになりますが、天文現象はいろいろありますし、ヘール・ボップ彗星だって、1995年に発見されたんですから、ある日突然他の新しい彗星が発見されることだってあります。大きな負担なしに望遠鏡が使えるようなら、一家に一台あってもいいんじゃないかなと思います」
「僕は自家用車を持っていないので、例えば奈良の山奥に行って、暗いところでガイド撮影をするというわけには行きません。天文ガイドに投稿するような写真を撮ることは難しいです」
「自動車や暗い空がなくても、周りに人がいなければ大丈夫です。光がかぶらないようにできれば、月の観測はできます。例えば、スペースさえあれば、ベランダでもいいですよ」
「そう言えば、この前母親に天体望遠鏡を買うかもしれないと話したら、屋根の上に観測所を作ってもいいと言っていたなあ」
「そういうのがあれば、観測はしやすいです。好きな時に一晩じゅう、星を眺めていられるんですから。これは天文好きには有難いということになります」
「ローンで購入するとして、おいくらになりますか」
「そうですね、赤道儀付きの望遠鏡、あなたは初心者の方のようですから、屈折式の100ミリくらいのがよいでしょう。フローライトレンズなので、暗い星も明るく見えます。接眼レンズを2つつけて、それから赤道儀を動かすためにバッテリーが必要ですね。だいたい50万円でしょうか」
「実は、天文ガイドには投稿しませんが、月や星の写真は撮りたいと思っています。オリンパスOM1と繋ぐアダプターもほしいのですが」
「わかりました。それも用意できます。空が明るいので、ガイド撮影ができるのは月くらいでしょうか。見るだけでも、木星、土星、火星なんかは赤道儀がなければ、すぐにファインダーからいなくなってしまいます。もう少し口径がある望遠鏡なら、木星や土星の観測も楽しいでしょう」
「少しずつ、必要なものを購入すれば、天体観測が楽しくなりますね」
「そうですね。でもいくつか覚えておいた方がよいことがあります。知っておいた方が大きな失望を持たなくて済みます」
「どんなことですか」
「まずは天候です。晴れていてもシンチレーションが悪ければファインダーが揺らめいて、写真も良いものが撮れない。もちろん曇りや雨の日は観測できません。それから新月の頃でなければ、銀河や星雲の写真は撮れません。特に満月の頃は空がとても明るいので、天体観測には向きません」
「そ、そんなに制約されるのですか」
「それからもうひとつ。有名な星雲、星団は秋から冬にかけてですが、この頃、特に冬は観測が厳しいです。最初は夏に観測するのがよいかもしれません」
「大変だなー。そこまでしないとできないんですね」
「そう、それを覚悟して、購入するかどうかを決めなければなりません。せっかく購入したのに使われなくなることはよくあることです。でも、星自体はきれいで、期待を裏切らないので、そこいらを受け入れて、とりあえず購入されてはいかがですか」
「そ、そうですね、購入することにします。望遠鏡が届いたらまたここに来ますよ。これからもいろいろ教えてください」
「どうぞ、またいらしてください」