プチ小説「プッチーニ好きの方に(仮題)完結編」
尼崎のアルカイックホールで、プッチーニの歌劇「ボエーム」を関西二期会が公演するから、一緒に見ないかと井上から連絡があったので、小川は東京から足を運ぶことにした。土曜日だったし、開演時間が午後4時からだったので、何とか終電で帰京できると考えたからだった。小川は東京での生活が20年近くになっていたが、年に一回は家族と共に帰っていた。単身で関西に帰るのは数年ぶりだった。井上は小川と同じ京都の大学を卒業して、地元の食品会社に就職していた。ふたりは新大阪駅の改札口で待ち合わせたが、改札口から小川が出て来ると、井上は小川に声を掛けた。
「久しぶりだね、こうして対面して話をするのは。秋子さんや娘さんはどうしているの」
「秋子は1年前から音大の事務員をしていて、音楽仲間とアンサンブルを立ち上げると言っている。長女は、ロンドンに音楽留学している」
「確か、ピアノを習っているんだね。下の娘(こ)はどうしているの」
「やっぱり、母親や姉が音楽活動をしているので、自分も何か楽器をやりたいようだ」
「まだ決まっていないの」
「母親がクラリネットをしているから同じ楽器をしたいようだけど...」
「クラリネットじゃあ駄目なの」
「やっぱり、曲目が圧倒的に多いのはヴァイオリンとピアノだろ。だからヴァイオリンの方がいいと思っている。でも本人がどうしてもお母さんと同じものをと決めているなら、それを大切にしたい。無理にヴァイオリンを習わせても、やる気が起こらないんじゃないかな」
「それでも親としてはヴァイオリンがいいわけだ。秋子さんのアンサンブルはうまく行っているの」
「なかなかうまく行かないんで、みんなを纏められるような方法がないかなと相談されたんだ」
「ふうん、いろいろ忙しいんだね」
「君はどうなんだい」
「そうだね。君みたいに就職して東京に行ってしまうということでないから、相変わらず学生時代の続きをしているという感じだね。京都はいろんな楽しみがある街だからね」
2人は阪神尼崎駅からしばらく歩いて、アルカイックホールに着いた。
「えーと、会場に着いたけど、席は3000円のC席だったね」
「そう一番後ろの席さ。特等席の空きはあったけど手頃な値段の席は取れなかったよ」
「いや、こうして井上さんと一緒に学生時代から観たかった「ボエーム」が鑑賞できるんだから、それで充分だよ。ミラノ・スカラ座やローマ歌劇場の公演だと手が届くチケットはすぐに売れてしまって、とても入場できない。クラシック音楽を聴き始めた人は、イタリアで歌劇が見たい、ドイツのホールでオーケストラの演奏が聴きたい、バイロイトでワーグナーが聴きたい、ウィーンでモーツァルトやベートーヴェンを聴きたい。一生に一度でいいからと思ったりする、じつはぼくもウィーンでベートーヴェン三昧したいんだけど、熱意が続かないと夢に終わってしまう。今日、こうして、プッチーニの歌劇を2人で見たことは、ずっと後まで良い思い出として残ると思うよ。要はそれをするかしないかだけど、やればそれは、趣味の世界にすぎないけど、きっといい思い出になると思う」
「さあ、拍手が始まった。より良い思い出になるように、いい音楽が聴けますように」
「聴けますように」