プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生35」

小川は、結婚式当日の未明に3年余り暮らしたアパートにひとりいて部屋の片付けをしていた。
<さっきは不覚にも睡魔に襲われ寝入ってしまったが、気を付けないと...。朝までに荷物を梱包しておけば、
 旅行から帰ったら荷物を取りに来るだけで済む。それにしても、たくさんの本を購入したものだな。
 本箱を入れるスペースがないものだから、壁に沿って50センチほど積み上げている。文庫本だけなら
 いいけれど、シュテファン・ツヴァイク全集や「失われた時を求めて」なんかも、小宮山書店で安くで
 売っていたから購入してしまった。これらを30年以内に読めるんだろうか>
小川の部屋は4畳半一間。家具としては、炬燵くらいで、衣裳を入れるのも安物のビニール製ケースだった。
他に家電としてはテレビとラジオと扇風機、小型冷蔵庫があったが、しばしばヒューズが飛んだので、炬燵を
つける時には冷蔵庫のコンセントは抜いておかなければならなかった。
<それにしても、新居といっても築30年の文化住宅なんだ。仕事場に近くて家賃も許容範囲内と思ったけれど
 秋子さんはどう思っているだろう。秋子さんは、アパートに住みたいから、東京暮らしに慣れたら働くと言って
 いたけれど...。いかん、考えごとをすると手が止まってしまう。もう1時だ。あと4時間でここを出て、新居で
 秋子さんと待ち合わせ、9時には結婚式場に行くことになっている。そうだ!今読みかけの「マーティン・チャズル
 ウィット」を旅行に持って行かないと、あった、あった、そう言えば、26章に出て来る、ギャンプ夫人の奇妙な
 仕草は久しぶりに笑わせてもらった。「数知れぬほどの横目、目のパチパチ、咳、うなずき、ニッコリ、膝まげの
 お辞儀」を可愛らしいおばさんがするんだったら微笑ましいのだが...。あとは、箱詰めをしてガムテープを貼っておこう。
 少し、横になるか>

小川は横になるとすぐに眠り込んでしまい、夢の中にディケンズ先生が現れた。
「小川君、もうすぐ結婚式だね。披露宴に秋子さんの友人としてアユミさんが来ることになっているが...」
「それなら、大丈夫ですよ。ご主人も一緒に来られますから。二人は貴重な来賓なんですよ。僕たちの実家がある関西で
 結婚式をやるべきだったんでしょうが、僕の職場の人にきれいな花嫁を見てもらいたくて、秋子さんやご両親に僕の
 わがままを許してもらったんですよ。そのために秋子さんの友人の都合がつかなくなって、本当に申し訳ないなぁと...」
「そうか、でも秋子さんは君の気持ちを分かってくれるよ」
「そうであってほしいんですが。....。あれ、誰かが僕を揺さぶっているようだぞ。もしかしたら...」

「ねえ、小川さん、起きてよ。もうすぐ5時よ。心配だから、見に来たのよ。でも、よく片付けたわね。
 今日は結婚式と披露宴だけじゃなく、強行軍の新婚旅行にも行かなければならないのよ。上野から
 東北新幹線に乗って仙台で1泊してから山形、花巻、青森。そう、海外旅行は先の楽しみにしましょうね」
そう言って、秋子はやさしく笑った。