プチ小説「東海道線の妖精」

 石井は、年に一回遠出することを楽しみに日々の仕事に励んでいた。この夏も鳥取県に泊りがけで出掛けて、銀河を夜中まで眺めていようというのが彼の計画で、計画を立ててからはその日が来ることを楽しみにしていた。
 <今年は、8月8日が新月だから、鳥取市内のどこかのホテルの予約を取ろう。鳥取県内はどこでも天の川が見えるというから、確認したいんだ>
 彼は早々とホテルの予約を取り、その日が来ることを楽しみにしていたが、8月になって仕事が忙しくなり、泊りがけの旅行をするのは不可能になった。彼はやむなくキャンセルした。
 <まあ、仕方ないかな。宿泊しての旅行は来年以降にするとして、今年はもう少し近場で天の川が見られないかな。おや、これがいいんじゃないか>
 彼がネット検索をしていると、伊吹山星空観光バスというのが見つかった。
 <米原駅午後5時10分発のバスで山頂駐車場に行き、1時間半ほど頂上を散策して、そこで天体を見渡す。米原駅に午後9時10分に戻って来るから、午後9時30分過ぎの新快速で大阪に帰って来られる。8月7日は新月じゃないけど、天体は暗いから天の川は見られるんじゃないかな。明日、バス会社に電話を入れてみよう>
 石井は翌朝期待を胸に電話を入れたが、残念なことにバスは満席だった。8月7日の前後の日程で行くことも考えたが、8月6日だと仕事を終えてから、米原駅に午後5時過ぎに行くことは無理だし、8月8日は日曜日で、星空を見て帰宅するのが午後11時過ぎになるので翌日の勤務に差し支えると考えた。
 <そうだ、伊吹山の近くの米原なら大阪から遠く離れているから、きっと空は真っ暗だろう。幹線道路から離れて住宅街の暗いところなら、天の川が見られるんじゃないのかな>
 そう思った石井は、8月6日の勤務を終えると眠眠でジンギスカン定食と餃子一人前を食するとJR吹田駅から米原へと向かった。高槻で新快速に乗り換えて、米原に到着したのは午後8時30分だった。
 <8時54分に網干行きの新快速があるから、それで帰ろう。ちょっと星空を見て帰るかな>
 石井は駅の建物を出てしばらくあたりを歩いたが、生憎空の半分ほどに雲が掛っていて、余り星は見えなかった。満天の星空というわけには行かなかったが、心持ち天体が暗い感じがして、輝く星の数も大阪府下より多い気がした。
 <こんなもので満足するのもどうかと思うが、今は遠くに行けないから仕方ないよな。そろそろ帰途に着くか>
 午後8時54分の新快速に乗って座席を探したが、2人掛けのシートは埋まっていて、石井は4人掛けの席に腰掛けた。能登川で乗車したほろ酔い気分の還暦を過ぎた感じの男性が、向かいの席に座った。その男性は陽気に石井に声を掛けた。
「仕事の後のチューハイはたまらんね。もう1本持っとるから、あんたも飲まへんか」
 その男性は500ccアルコール濃度9パーセントのレモンチューハイを頭陀袋から出したので、いつもビールをジンジャエールで割って飲んでいる石井はきついと思ってしり込みした。
「こ、この後用事があるので...すみません」
「なにゆーとるん。あんた、米原で星を見てきただけやろが」
「えっ、なんで、そ、それがあなたにわかるんですか」
 おじさんは得意げに解説をし始めた。
「あんたくらいのチューネンを少し過ぎた男の中にはな、ふとある日今まで満天の空を見たことがなかったことに気が付く人がおるんや」
「それで、この電車で米原に星を見に行くんですか」
「もちろん、お金持ちの人は休暇を利用して、星がよー見える、八ヶ岳や天文台があるところへ行くんやが、あんたみたいに、休暇が取れなくて近場でと考える人は...いろいろ情報を集めるけど頓挫して、米原で我慢するみたいや。ちょうど新快速の終点やし、なんか夜空が暗そうやでと思うんかもしれん。そやけど満天の星空を見るためやったら、やっぱり伊吹山の山頂か、奈良の山奥に行かんとあかんと思うで」
 石井は知らないうちにおじさんからチューハイを受け取り、アルコールを口に流し込んでいた。
「そ、それはそうなんですけど。ぼ、ぼくはストレスが溜まって来たので、息抜きやガス抜きをしたいんです」
「そらあんたの気持ちもわからんでもないけど、それやと願いが叶わんままやし、ストレスが溜まるだけや。ちょっと待ってや」
 おじさんは咳をひとつすると、周りを見回した。驚いたことに石井の周りはうっすらと影ができて静止していた。
「わしは東海道線に出没する妖精なんや。下っ端やけどな」
「そうなんですか、妖精さんのことは初めて聞きました。で、なにか面白いことをしてくださるんですね」
「うーむ、あかん、やめや、段々熱が冷めて来た」
 石井が周りを見ると少し明るくなったようだった。
「す、すみません。あなたの好意の熱を冷ますようなことを言ってしまいました。これからは気を付けます」
「よし、それでええんや。ほたら、あんたを1時間だけ、夢の中の世界で満天の星を見せてあげよう。ナビゲーターはあんたの幼馴染の松子さんやでぇ。ほんでわしとはここでおさらばや。わしはこれからもあんたを見守っておるから、しっかり日々精進するんやで。ではまた、しーゆーねくすと」

 石井が霧のトンネルを抜けると小学生の頃に訪れた奈良の山奥の山荘があった。その前に小学校の頃に仲良くしていた女の子がいた。
「あら、石井君久しぶりね。もう少ししたら日が暮れてきれいな星空が現れるから、一緒に見ようよ」
「もちろん、一緒に見るさ」

 高槻駅に近づくと車内にアナウンスが流れて、それを聞いて石井は目を覚ました。時計を見ると午後10時だった。
「それにしても、何の因果かわからないけど、気のいいおじさんが、現れて楽しいひと時を過ごさせてくれた...でもこの缶チューハイの空き缶は、どう考えればいいのか。さっきのが夢だったと言いきれないし、あのおじさんは妖精と名乗っていたし...。痕跡を残したかったのかな。まあ、深いことは考えずに、おじさん、いや妖精と言わないと相手にしてもらえないかな、と再会できることを待ち望んで過ごすとするか。この空き缶を見て、日々仕事に励むとしよう」
 石井は、そのアルミ缶(空き缶)をタオルにくるんで大切そうに鞄にしまった。