プチ小説「ラヴェル好きの方に(仮題)完結編」
大宮と千代子は、いつものように土曜日の午後に賀茂川べりを歩いていた。彼らが散策の際に交わすのは、クラシック音楽のとりとめのない話だった。
「この前、柳月堂でラヴェルを聴いたけど、やっぱり僕はのめり込めないあぁ」
「まあ、仕方ないかな。大宮さんは、ベートーヴェンやブラームスのような物語があって、最後にジーンと感動を齎すような曲が好きだから」
「そうか、ベートーヴェンやブラームスには物語があるのか」
「素人のわけのわからない話として聞き流してもらったらいいんだけど、ファンができてブームが起こるためには、何か象徴となる人物が必要だと思うわ。全然関係ないことを話すけど、例えば私たちが中学生の頃、関西では深夜放送のブームが起きたけれど、それはある一人の偉大な落語家に寄るところが大きいと思うの。その人が現れなかったら、今でも深夜は静かな音楽や受験生の恋愛や勉強の悩みを聞くための番組しかなかったと思うわ」
「そうだね、彼が独特の節回しで話すのは、心地よい音楽を聴いているようだった。話の内容はエッチなものが多かったけどね。彼がそんなことで試行錯誤したから、後に続く人が出て来たというわけだね」
「話は戻って、例えばベートーヴェンだけど彼の人生はドラマティックで耳の病気のことや弟との確執はよく取り上げられる。恋愛についても作曲した曲と関連づけられているわ」
「僕たちは、曲に付随する形で彼の人生を垣間見るわけだ。家族に対するいろいろな不満や憤り、恋愛がうまく行かないことに対する不満、悪化する耳の病気に対する不安、こういった感情がベートーヴェンの頭の中でごった煮になって、そのままその感情を五線譜に残したというのは、ちょっとはあるのかもしれない」
「ブラームスにしても、たくさんの友人からいろんな感化を受けたというのはあるのかもしれないけれど、私が欠かせないと思うのは、シューマンの奥さんのクララとの関係だわ。彼女への思慕はシューマンの死後ますます高まって行ったと聞くし、その複雑な感情が五線譜に反映されたんじゃないかしら」
「うーん、そう考えるといろんな悩みを持っていて、それを五線譜に反映させたという感じの作曲家が思い当たるね」
「チャイコフスキーとかかしら」
「そうだね、彼は五人組と少し離れたところで冷静に自分の曲を作曲していたように見えるが、キュイなんかはチャイコフスキーの作品に対して辛辣な批評を繰り返していたらしい。それで彼は苦しい思いをしたと伝記で読んだことがある」
「ワーグナーの場合、同時代の人にいろいろ厳しいことを言っていた」
「だからしんどい思いをしたけど、それは作品を作る推進力となったし、彼の音楽がすばらしいと思った人は心から彼の音楽を信奉した」
「ラヴェルの場合、同じ頃にドビュッシーがいたくらいで、競い合うということもなかったし、生活にも大きな起伏はなかった。そんな彼が自分の人生の一時に心を時めかせたり、激怒したり、感激したことを五線譜に反映させるということはできなかったというのは考えすぎだろうか」
「それじゃあ、一時でも心を時めかす時があったり、感情を爆発させる時があったら、どんな人でも心を動かす曲が作れるのかしら」
「まず作曲できるかが問題となるだろう。僕には残念ながらそんな力は持っていない。もうひとつはうまく消化して作品に出来るかだな」
「そんな能力がある人を羨ましく思うわ」
「そうかな、絶対音感を持つ人がすべての音がドとかレとかミとかに分けて聴くように、感情と作曲が結びつくと四六時中作曲のことを考えないといけなくなる。日々の暮らしに葛藤を持ち込むことになるから、しんどいんじゃないかな」
「そうかしら、すぐに結果を出すようにしないで、ほどほどにしたらいいんじゃないかな。たまには柳月堂でリクエストしたりして」