プチ小説「J.シュトラウス(2世)好き(?)の方に(仮題)完結編」

太田と新しい次長とがJ.シュトラウスの音楽について話す機会は以外に早くやって来た。細田の上司が次長と頻繁に話すため、細田と次長と話すことが多くなった。細田がクラシック音楽のファンであることを知って、次長が一緒にワインでも飲みながら好きな音楽のことを話そうと誘われたので、細田は、私よりもっと熱心なクラシックファンがいるんですと話したところ、次長はじゃあ、その人も連れて来なさいと言われたのだった。

三人は不動前駅で待ち合わせて、近くのワインバーに入った。それまでよそよそしかったが、次長がいきなりワイングラスのワインを一気飲みしたあたりから、雰囲気が和やかになった。
「次長さん、大丈夫ですか。無理しない方がいいですよ」
「いや、大丈夫だよ。ぼくはよくここに来るんだが、10杯はいつも飲んでいるから」
「そうそう、紹介しないといけないですね。こちらが40年にわたって当社に勤務されている太田さんです」
次長は勢いをつけるためか、2杯目を飲み干すと3杯目を注文し終えてから言った。
「そうか、そんなに長く勤務されているのですね。細田君の話ではクラシック音楽が好きだと...」
「次長、ありがとうございます。でも正直、クラシック音楽というのは幅広いですから、同じ土俵の上での話ができるかどうか」
「そ、それはどういうことかな」
細田は心配そうにふたりの顔色を伺ったが、次長は赤くて太田は青白かった。次長は早くも4杯目を頼んでいた。
「私はクラシック音楽はストイックなものと考えていて、ワイングラス片手に耳を傾けるような音楽ではないと思っています。例えば、ベートーヴェンの「運命」なんかは、ほろ酔い状態では聞けないでしょう。ベートーヴェンに叱られそうです」
「なるほどねー、君の言うことには説得力があるなぁ。でも、ぼくもベートーヴェンやロマン派の音楽を聴くときには、お酒を飲まず、スピーカーに対峙してじっくり聴くよ。お酒で耳が麻痺していると充分に楽しめないから」
「そうなんですか。じゃあ、J.シュトラウスはどうですか」
「J.シュトラウスは2世も含めて、オーストリアが栄えていた頃の音楽で、もちろんそれには勝利の美酒が付き物だったからね。作曲家もそのあたりのことを意識して、賑やかで勇ましい音楽を作曲したんだと思うよ。「美しき青きドナウ」「ウィーンの森の物語」なんかはちょっと違うけど、概ね彼が作曲した音楽はそんな雰囲気の中でも雰囲気を壊さないものになっている。もし舞踏会の最中に、ベートーヴェンの「運命」がホールに響き渡ったら、浮かれ騒ぎが吹き飛んで、厳粛な空間になってしまうだろう。音楽もTPOを選んで作曲されていると考えるね」
「でも才能豊かな作曲家が他の音楽は作曲せずに明朗な曲やオペレッタだけを作曲したというのはもったいない気がします。心を熱くする名曲を残せなかったのでしょうか」
「それは時代の要請があったのだから仕方がないだろう。ベートーヴェンのように信念を持って感動できる音楽を作曲し続けることは難しい。でも、ベートーヴェンだって、「ウェリントンの勝利」の他、貴族や国家を讃える曲を数多く作曲している。ただ感動できる曲を作曲したからと言って受け入れる側がなければ、収入に繋がらないし観客も集められない」
「うーん、仰る通りだと思いますが、そんなに開けっぴろげに言われると...」
「そう、ぼくも学生時代までは太田さんのようなストイックなクラシックファンだったが、今はベートーヴェンやロマン派の音楽を聴くときだけ、酒も飲まずにストイックになっている」
「お仕事で忙しいし、いろいろ事情があって、ごくわずかの時間しかストイックになれないのでしょうね。それで飲食をして帰ってから聴くのは、そういう状況でも楽しめる、J.シュトラウス2世をはじめウィンナワルツや他のジャンルの音楽ということになるのですね」
次長は8杯目のワインを頼み終えると言った。
「そうなんだが、やっぱりほろ酔い気分では音楽を聴く気分にはならない。学生時代に楽しんだ音楽をもう一度楽しんでみたい気がするから、これからしばらくは土日はスピーカーに対峙してゆっくりクラシック音楽を聴こうかと思っている。良かったら、君たち二人が自慢のレコードを持って家に来てくれると嬉しいんだが」
「ベートーヴェンやブラームスだけでもいいんですか」
「もちろん結構。心を時めかせることが出来る、感動的な音楽を聴かせてくれたら、感謝するよ」
「わかりました。細田君、そういうわけだから選曲して次長の家でレコードを聴かせてもらうことにしよう」
「ええ、喜んでおつき合いさせてもらいますよ」
「そうかそうか、よろしくねー」
次長はいつものように10杯目のワインを飲み干すと、二人の肩を借りて店を後にした。