プチ小説「ヘンデル好きの方に(仮題)完結編」
法学部の学舎存心館の前を小川が歩いていると、井上が声を掛けた。
「この前、ヘンデルの話が途中になったけど、ぼくもストコフスキーの花火のレコードを聴いたから話の続きをしようよ」
「いいよ、でもどうやらあの効果音入りのレコードは日本のレコード会社が考えたことで、ストコフスキーが、最後のところで派手な花火の音を入れてくれと言ったわけではなさそうだよ」
「そうか、それは少し尾ひれが小さくなったようで残念だね。すると将来ぼくが外国盤でストコフスキーとRCAビクター交響楽団のレコードを買ったとしても、いい音で花火の音を聴くことはできないのか」
「そうだねえ。あと「オンブラ・マイ・フ」はウイスキーのCMで知られるようになったけど、キャスリーン・バトルの歌声は素敵だった。それから大好きなハープ協奏曲のことを言うのを忘れていた。ヘンデルはドイツであまり目立たなかったというんで、一時イタリアで活動したが、25才の頃にイギリスに渡り王室に仕えてブリリアントな音楽をたくさん作曲した。ドイツやイタリアで地味に作曲していた頃の作品には、温かくて心を動かすような音楽があるかもしれない。英国に渡る時に破棄したのでなければ調べてほしい気がする」
「そうだねえ、ハープ協奏曲のような、でもこれは51才の頃の作曲みたいだけれど、温かくて心が和む音楽が他にも見つかるかもしれないね」
小川が何か話したそうにしているので、井上は、そこのベンチに座ろうかと言った。
「ありがとう。この前の話に合ったディケンズの長編小説の翻訳のことだけど、1983年現在では、新潮文庫の『デイヴィッド・コパフィールド』(中野好夫訳)『大いなる遺産』(山西英一訳)『二都物語』(中野好夫訳)それから講談社文庫の『オリヴァー・トゥイスト』(小池滋訳)が本屋さんですぐ手に入るディケンズの長編小説と言える。この他に三笠書房の『ピクウィック・クラブ』(北川悌二訳)『骨董屋』(北川悌二訳)『マーティン・チャズルウィット』(北川悌二訳)、筑摩書房から青木雄造、小池滋共訳の『荒涼館』、集英社から小池滋訳の『バーナビー・ラッジ』と『リトル・ドリット』がある。他にも『大いなる遺産』と『二都物語』『オリヴァー・トゥイスト』は人気がある作品だから、『大いなる遺産』の日高八郎訳のような名訳が他にもある」
「ディケンズは14の完成した長編小説を書いているって聞くけど、他の作品はどんな具合なのかな」
「1983年時点では、『ニコラス・ニクルビー』『ドンビー父子』『ハード・タイムズ』『互いの友』の4つの長編小説は日本語訳がない。早く翻訳されることを願っている」(前から、2001年、2000年、2000年、1996年に初訳が出版されている)
「でも翻訳されないというのは作品自体どうなのかなぁ」
「ディケンズでは、特に『大いなる遺産』と『二都物語』が人気がある。でもディケンズという作家を深く知るためにはまずすべての作品を読んでみることが一番の近道だと思う。英文科の学生なら原書を読むのだけれど法学部の学生にはディケンズの英語を理解して、しかもあの分厚い本を読むためには膨大な時間が必要なんだ。せめて『ニコラス・ニクルビー』と『ドンビー父子』は翻訳が出てほしいよ」
「ぼくはヘンデルのイギリスに渡る前の名曲の研究をやってほしいと思うけど、小川君はディケンズの翻訳をもっとやってほしいというわけだ」
「そうだね、これらは他力本願しかないからね」