プチ小説「ハイドン好きの方に(仮題)完結編」
井上が学生会館の中にあるクラシック愛好会の部室に行くと、ハイドンを崇拝している先輩がアナログレコードのジャケットを見ていた。
「先輩、そのレコードはもしかしてハイドンのチェロ協奏曲のレコードじゃないですか。演奏は確か、クリスティーヌ・ワレフスカだったかな」
「そう、フィリップス・レコードの名盤だと思う。エド・デ・ワールト指揮イギリス室内管弦楽団の伴奏もすばらしいし」
「ぼくもハイドンのチェロ協奏曲は第1番も第2番も好きでよく聴きます。第2番だけのレコードが多くて、第1番と第2番が一緒に聴けるのは、後はデュ・プレくらいかな」
「ワレフスカは結婚してアルゼンチンに移住してしまったので、数枚のチェロ協奏曲だけがメジャーレーベルに残したレコードとして残っている」
「ワレフスカの場合、存命されていたけど残念ながら円熟期のレコードは一枚も残っていない。若くて瑞々しいレコードはいくつかあるけど」
「そうだ、井上君は夭折の、あるいはなんかの理由で早くに演奏活動をやめた演奏家の名盤って知っている。ぼくはさっき話に出た、ジャクリーヌ・デュ・プレ、彼女は筋肉が委縮する不治の病にかかって演奏を続けられなくなったけど」
「最近、ブラームスのドイツ・レクイエムが聴きたくなって調べていたら、フリッツ・レーマンのレコードがいいと書かれていました。40才を過ぎてこれからという時に亡くなってしまいました」
「レーマンはマイナルディの伴奏で、ハイドンのチェロ協奏曲第2番のレコードも残しているね」
「そうですね。それからピアニストのディヌ・リパッティ(33才)とフランソワ(46才)もこれからという時にと言えるんじゃないかな」
「そうだね、フランソワが残したディスクはピアノのソロ演奏がほとんどだから、アンサンブルの作品を残してほしかった。リパッティの場合は、シューマン、グリーク、モーツァルトの第21番のピアノ協奏曲がいずれも名盤で、ショパンのワルツ全曲は70年以上経過した今でも最高の演奏と言われている。リパッテイが存命していたら、モーツァルトの第20番以降のピアノ協奏曲、ピアノ・ソナタ全曲を手始めにベートーヴェンの協奏曲やソナタのレコードを残していたかもしれない。いやそれよりショパンの最高の演奏を残したかもしれない」
「例えばどの曲ですか」
「ぼくはポロネーズが作曲家の希望通りに演奏できていない曲と思っている。リパッティならそのあたりをちゃんと消化してショパンが弾いていたポロネーズ全曲そのものを聴かせてくれたと思うんだ」
「確かにポロネーズ集は「英雄ポロネーズ」だけが盛り上がって、他はつまらないという感じだけれど他の曲も楽しませてくれるということですね」
「でも残念ながら、彼のようなピアニストは現れない気がする。彼のような天才は」
「そうですね。彼のショパンのワルツ集は音色、テンポ感、テクニックのあらゆる面で追随を許さないという感じがします。SPレコードの時代の録音なので、SPレコード盤は垂涎のレコードですね」
「そう、ぼくも一度聴いたことがあるけど、何とも言えない味わいのある演奏だった」
「クラシック界の夭折の、もう少し長生きしてくれていたらと誰もが思うアーティストは、ディヌ・リパッティですね」
「そうだね、異存はないよ」