プチ小説「東海道線の妖精 4」
石井は妖精のおじさんと約束した3週間後の金曜日の夜に、JR吹田駅から米原へと向かった。大津駅を出ると残りの3つの席が空いたのをいいことに、石井は独り言を言った。
「妖精のおじさんは、プッチーニの歌劇「ラ・ボエーム」の最初のところの詩人ロドルフォとお針子ミミの出会いのシーンを参考にして、どのように恋愛で演じるストーリーを作って行ったらいいか考えなさいと言われていた。シチュエーションが違うことや「ラ・ボエーム」は最後は悲劇で終わってしまうことをぼくが言ったが、そんなことは問題にならないようだった。それでもう一度会う前に、「ラ・ボエーム」の最初のところを調べたんだが、やはりロドルフォが歌う「冷たい手を」とミミが歌う「私の名はミミ」が愛の囁きで、この最初の対面で言葉を交わしただけで二人の距離がぐんと縮まっている。ロドルフォが暗闇で鍵を探している時にミミの手に触れて、手が冷たくなっていることを言ってから温めさせてくれと言っている。そうしてさりげなく自分がミミに関心を持っていることを呟き、自分の生活や職業そして夢のある話をしている。そうして比喩表現で愛を語っている。それからあなたの話をしてくださいと言っている。「私の名はミミ」では、ミミは自己紹介をして自分の仕事について話した後、自分の生活や趣味について話している。愛や花、夢や幻想について語ることが好きだと言っている。その後は春や花の意味深長な話をして、ロドルフォがどう思うか様子を見ている感じだ。多分、おじさんはこの辺りのテクニックのことを詳しく説明してくれるんだろう」
しばらくすると快速電車は米原駅に着いた。石井は一旦改札口を出て切符を購入してもう一度改札口をくぐると、ホームに降りて大阪方面行の快速電車に乗り込んだ。
「でも、第3幕のところで、ロドルフォがミミに対して冷たくなって、友人のマルチェッロから問いただされるとロドルフォは、ミミの病気が重くて、自分と暮らしていては助からないと言う。それで結局ロドルフォとミミは別れるが、第4幕で瀕死の状態となったミミを連れて、マルチェッロの恋人のムゼッタがロドルフォの前に現れる。そうして最後はミミとの辛い別れが...ああ、もう能登川駅に着いたんだ」
向かいのシートには妖精のおじさんが座っていて、辺りは少し暗くなって時間は静止していた。
「結構、調べたんやな」
「それはもちろん大切なことを教えていただくのですから、手ぶらというわけには行かないでしょう」
「そやけんど、問題は、「ラ・ボエーム」から何を学ぶかや」
「といいますと、いきなり実技に入るというのではないのですね」
「そうやでー、まずは古典と言われる、文学、歌劇、映画、マンガなんかのストーリーや台詞を検証して、自分が恋愛するときの参考にするというのがわしのやり方や」
「じゃあ、まずどんなことをすればいいんでしょう」
「まずは、「ラ・ボエーム」をざっと見たこととを思うんやが、これはいかんなー、これは止めといた方がええなーちゅーのがなかったかな」
「それはいくつかありますが、やっぱり第3幕で、ミミが重い病気になって、ロドルフォが自分の窮乏の生活のせいだから別れようと言うところですね。やっぱりそこは何とか自分で頑張ってミミを支えてあげないとと思いました。
「そうやな、それは誰もが思うことやな。それから他にないかな。ここからはあんたの創造力を一所懸命に働かせてほしい。変てこなことでもかまわんから」
「そうですね、ロドルフォは仲間のボヘミアン、マルチェッロ(画家)、ショナール(音楽家)、コッリーネ(哲学者)と一緒の生活を続けますが、ミミを大切にしてミミ命として生きるのなら、彼らとの縁を切ってもよかったですね。ボヘミアンの気ままな生活をいつまでも続けるわけには行かないし、ムゼッタが加わって益々お金が必要になった気がします。今まで苦楽を共にしたマルチェッロたちと別れるのは辛いでしょうが、ここは、これから地方中級の公務員試験を受けるからあなたたちとの付き合いはできないと言うべきだったでしょう。でもそんな話になったら、歌劇にはならなかったでしょうけど」
「そうやな、いろんな柵(しがらみ)があって普通なら選択することを妨げよる。ミミとの恋愛を続けたい、マルチェッロ、ショナール、コッリーネ、ムゼッタとも付き合いを続けたい。言うてみたら、ロドルフォはふたつは両立しないことをうすうす感じていたのかもしれん」
「ロドルフォってそんな冷めた人間なんですか。ミミが病気にならなければ、問題は起こらなかったでしょう」
「ああ、もうすぐ京都駅やで」
「えーっ、もうお別れですか」
「中途半端になってしもうたと思うかも知らんが、お互い話すことは話した。ほやから3週間後は、今日の話を踏まえて、実践にどう生かすかについて話し合おう」
「また話し合いですか。実践はいつになるんですか」
「そらいくつかの文学、歌劇、映画、マンガを検討してからやな。今のままでは実践はまだまだやわ。わしにこれやったらいけると思わせんといつまでも検証を続けるよ、あんたが40才を過ぎても松子さんとの再会はでけんかもしれん」
「えーっ、それは困るからもっと気合を入れて頑張ります。これからもよろしくお願いいたします」
そう言って、石井がレモンチューハイを渡して、時計を見るといつのまにか1時間が経過していた。
「あんたは時が止まっているはずやのにいつの間に京都まで電車が走ったのと思うかも知らんけど、あんまり細かいことは考えん方がええ。そういう小細工はわしが好きで得意なものと考えればええんやで」
そう妖精のおじさんが言ってシートのお尻が当たるところを取ると、そこから車体の中へと消えてしまった。