プチ小説「東海道線の妖精 5」

妖精のおじさんと出会ってから2ヶ月余り経って、今では塾に通う高校生のようになった石井は、緊張感を持つようになりうまく先生からの質問に答えられるか不安を感じながら先生の登場を待つようになった。いつものように能登川駅を過ぎるといつの間にか妖精のおじさんが前の席に座り、辺りが暗くなっていた。
「よう、元気にしとったか」
「ええ、でも先生からの宿題が難しくて、どうすればいいのかと思います」
「そうやな、わしがあんたのために骨を折ったるちゅーても、それが自分で消化できる宿題やなかったら、次の授業が大きな苦痛になる。あんたの高校時代のようなもんや」
「よくご存じですね。ぼくが授業が嫌いになって、高校時代の成績が最悪だったことももしかしたらご存じなんですか」
「そう、だいたいあんたは好き嫌いをすぐに表に出すから、いかん。まるで王様のように好き嫌いを分けて、物事を判断しとった。普通やったら、目上の先生が一生懸命享受してくれはると考えて、予習して何とか人並みの知識を得ようとするのが普通の高校生やのに、あんたは反発ばかりして...そうして不幸な浪人生活を経て、ようやく反省して普通の人に戻った」
「そうですね。もっと謙虚に先生の話を聞いていれば、高校生の時からいろんな知識を得ようと努力していたでしょう。そうすれば世界が明るく広がっていくということをもっと早く知ったでしょう...と偉そうなことを言いますが、結局得ることが出来たのが文系の大学生くらいの知識ですから、時すでに遅かりしと言わざるをえないのかもしれません」
「まあ、それでも浪人時代の終わりごろから、あんたはいろんな教養を身に着けようと、文学、語学、歴史、それからこれは全然歯が立たんようやったが哲学の本を継続して読んで来た。また趣味の範囲を超えとらんが、オペラや宗教音楽にも興味を持つようになった。そうしたものの実践ができるように、もちろんそれはあんたの恋愛のためにやが、ちょっとだけわしが助けたろと思っとるんや」
「ありがとうございます。こんなぼくのためにいろいろ教えてくださるのですね」
「それで前回の宿題の回答を求めたいところやが、わしはあんまり詰め込みすぎるのは嫌いやから、今日は、先生が突然授業をせんと自分の体験談や幼き日のことを語って、生徒の教師に対する信頼感、親近感なんかを齎すようなことをしてみたい」
「それってどんなことですか」
「そうやなー、例えば先生が今日は授業はやめて、自分のことをもっと知ってもらうために幼い頃の話をしますと言われたら、どう思う」
「実は高校時代にそう言って授業の半分くらい授業と関係ない話をした先生を覚えています。授業の内容より、そんな話の方が心に残っています。リラックスして聞いたからなのかなぁ」
「そう、それもあるけど、それは英語の構文や数式や歴史的な出来事と違って、その先生の周りで実際あったことで、先生が自分の体験を自分の言葉で語ったから、生徒にもわかりやすくて心に残ったからやと思う。それに関連付けて言えば、例えば、ヴェルディのオペラのどれかを自分なりに消化して語ることができれば、相手の胸に心地よく響いて、長いこと定着することになる。まあ、そのことを次回までには考えてくれと...そやけんど今日はあんたとわしがもう少し気安い関係になるような話を今からするわ」
「わかりました。静聴させていただきます」
「前にも紹介したように、わしは下っ端の妖精や。そやけど一通りの技を身に着けとるからこんなこともできる」
妖精がそう言うと、あたりが電車の向かい合った客席からいつの間にか東京の名曲喫茶の特等席に変わっていた。妖精は前の席から後ろを向いて、何やったらあんたの好きな曲をリクエストしてもええよと言った。石井が近くに来たウエイターに、ベートーヴェンの田園交響曲をワルターの演奏でと言うとすぐに「田園」が聞こえて来た。
「さあ、あんまり時間がないから、さわりだけ聞いたら、次にいくよー」
石井は驚きで、口をあんぐりと開けていたが、しばらくするとその開いた口をさらに開けざるを得なくなった。というのも石井はいつの間にか一人乗りのカヌーに乗って滝壺に落ちようとしていたからだった。
「すみません、ぼくが悪いことをしたのなら、お仕置きはこのくらいにしてください」
石井がそう言うと、いつの間にか流れは穏やかになり、石井は自由にパドルを操っていた。
「そうか、あんたは絶叫マシンみたいなんはあかんのやな。次はこんなのはどうかな」
石井が天を仰ぐとハレー彗星のような大きな彗星が見えて、あたりは数えきれないほどの色とりどりの星が輝いていた。
「うーん、これほどの技が仕えるのに下っ端と言われるのですか」
「こんなのは軽いんよ。そやけど人の感情が入って来るとややこしくなる。例えて言うと風景写真なんかを映像で見せるのは簡単やが、あんたが誰かと感情を通わせるように持って行くちゅーのは、もっと精進せんとあかん」
「そうなんですね」
「そう、あんたも理解できたと思うけど、単にわしの趣味であんたと松子さんをくっつけるというのやなくて、精進するためにあんたとあーでもない、こーでもないと意見を交わして、恋愛を成就させよう、ちゅーわけや」
「そんな大切なことに私を選んでもらえて光栄です。ぼくも精進します」
「そうそう、そういう風にリラックスして、新しい困難に積極的に取り組もうという気概が生まれたんで、今日はここまでや」
石井が500mlのレモンチューハイと500mlのパイナップルチューハイを取り出すと妖精のおじさんは、ありがとうと言って受け取り、大津駅で下車した。