プチ小説「東海道線の妖精 7」

石井は米原駅に向かう新快速電車の中で、妖精のおじさん(山口先生)からの質問にどう答えようかと考えた。
<恐らく、先生はロドルフォとミミの行動を反面教師と捉えなさいと言われているのではないと思う。「ラ・ボエーム」のロドルフォとミミの恋愛は決してうまく行った恋愛とは言えない。最後は自分が愛していた人が困窮の中で死んでしまうのだから。でも出会いから最初の別れの時までは毎日が楽しい日々だったと思う。彼女との思い出を一生大事に取っておくというのは、自分のことを愛し続けてくれた人に対する感謝の気持ちからだけど、人間の一生は残念ながら短いものだ。だから若い頃に一人の女性と1年間(例えばだが)過ごして、愛する人が結核で亡くなったとして、その恋人との恋愛を過去のものとして新しいスタートラインに立てるかなんだが...多分、こういった文芸的な物語の場合は主人公には何人かの友人がいるが、恋愛のことを打ち明けて話す人はほとんどおらず、オペラの中、自分の独白のなかで、あれこれ考えなければならないという場合が多い。それに仮に主人公がどのようにして熱い思いでもってこれからこの人を愛していこうかと悩んだ時に、例えばロドルフォのような主人公が友人の発言に左右されて、ほたらやめるわとか、これからはソフトに行くわとか
言ったのではみんながっかりしてしまうだろう。ひとり恋愛に悩む主人公というのは、文学やオペラの中で輝くんじゃないかな。ということを振り返った上で、自分の恋愛にどのように生かせばよいのか、どのようなことをすれば恋愛がうまく行くか考えなさいということだが...>
石井は米原駅に着いたので、一旦改札口を出たが、売店の前に行くと妖精のおじさんが腰に左手の手のひらを当ててビン入りのコーヒー牛乳を飲んでいた。おじさんは言った。
「仕事の後のコーヒー牛乳はうまい。これは風呂上がりの牛乳に匹敵する」
「ぼくもそう思いますが、この前来た時はこんなレトロな売店はなかったですよ」
「まあ、そうかもしれんけど、細かいこと言わんと一緒に京都方面行の新快速へ乗ろうや。あんたもいつものように能登川駅でわしが乗り込むのを待つより、気分転換出来て楽しいんとちゃう」
「そうですね、いつも同じよりいいですね。でも、どこから非現実の世界に入ったんだろう」
「あんたが改札口を出たところでその入り口が開いたわけやが、こまこいことは気にせんとき。この前の宿題についてあんたの話を聞こか」
そう妖精のおじさんが言った時、二人は大阪行きの新快速電車で向かい合わせに座っていた。
「先生が言われる、「どのようなことをすれば恋愛がうまく行くか」という質問に対する答えになっていないかもしれませんが、ひとりの女性を愛するようになったら、とことん頭の天辺から足の裏まで好きになることは疎かにしてはいけないことでしょう。でも...」
「でも何や」
「男は情熱を迸らせて、そのような恋愛にのめり込んでいくことは可能ですが、他方受け入れる側の女性の意識はどんなものでしょう。男が熱くなればなるほど嫌悪感を抱いて冷めて離れていく。男が熱くなればなるほど、女は一緒にいる時間が厭わしくなるということはないんでしょうか」
「そら、あんた考えすぎやと思うわ。それにそんなこといちいち考えとったら、何にもできひんのとちゃうのん」
「例えば、ミミの他にムゼッタという女性がこのオペラに登場しますが、ロドルフォのような熱愛の恋愛にムゼッタはちゃんと応えてくれるでしょうか」
「うーん、あんたの意見は考えさせられる、けどわしはロドルフォのような誠実な恋愛、好きな人に対しての姿勢は好きやな」
「でもそういう熱愛よりも、マルチェッロとムゼッタの遊び仲間同士の恋愛の方がうまく行くような気がします」
「ほしたら、あんたの見解というのは、恋愛はまじめな熱愛より、遊びの延長のような恋愛の方が長持ちするということかいな」
「そうですね。このオペラから何かを抽出するとしたら、そういうことになりますね。でも他のオペラや小説などなら、もっとためになる恋愛活動の糧となるものが見つけられるかもしれません。「ラ・ボエーム」はいろいろ考えさせられますが、結論としてはロドルフォのように熱愛で行くよりはもう少し距離を置いて、時間を掛けてミミをやさしく包んでほしかった。じっくりミミの話を聞いてあげたら、違う展開になった気がします」
「そしたらあんたは、「ラ・ボエーム」からは何も学ばなんだということかな」
「いえいえ、一人の女性を真剣に愛して、愛する人が不治の病に侵されてしまった。そんな時どんな風になるのかがよく分かります。リアリティがあって、心を動かされます。ですが、やはりぼくとしてはロドルフォの行動はミミのためになることをしているとは思えない。ロドルフォの行動から学ぶものはないという結論になります」
「そしたら、このオペラからあんたが学んだことは?」
「残念ながら、ありません。疑問が湧いてきて、いろいろ考えさせられるという意味では見たり聴いたり研究したりする価値があるオペラでしょう。でも恋愛の参考にはならないと思います」
「まあ、それもありかもしれんな。それで次行こということなんやが、あんたは何がええ」
「どうせなら、イタリアオペラ続きで、ヴェルディの「椿姫」(ラ・トラヴィアータ 道に迷った女)はどうでしょう」
そう言って、石井がレモンチューハイの500ml缶を渡すと妖精のおじさんは、おおきにと言って雑踏に消えていった。