プチ小説「東海道線の妖精 8」

石井は前回妖精のおじさんと会った時に、次回はヴェルディの「椿姫」をやろうと言われたので、念のため原作のデュマ・フィスの小説「椿姫」とどのように違うのかを調べてみた。
<小説は10年以上前に一度読んだだけだから余り覚えていないけれど、ヒロインが高級娼婦ということは同じだけれど、オペラではヴィオレッタが亡くなる時にアルフレードが傍にいて涙を誘うが、小説ではそのような劇的な場面はなく、危篤を知ってパリに戻るが間に合わなかった。それでアルマン・デュヴァル(オペラ「椿姫」のアルフレード)が嘆き悲しみ彼女の生前彼のためにしていたことを調べるというストーリーだったと思うのだが。マルグリット・ゴーティエ(オペラ「椿姫」のヴィオレッタ・ヴァレリー)のアルマンに対する愛は本物で、アルマンの父親から、息子の将来のために別れてほしいと言われて高級娼婦に戻ったことを知る。マルグリットの手記が出て来て涙を誘うが、ピアーヴェの台本によるヴェルディの「椿姫」に比べると筋運びがゆっくりしているというイメージなんだ。オペラは、第1幕でアルフレードとヴィオレッタの二人が舞踏会で出会ってアルフレードが告白している。第2幕で二人の幸せな家庭にアルフレートの父親ジェルモンが現れ、息子の将来のために別れるようヴィオレッタを説得し、ヴィオレッタは元の生活に戻ることを決意する。第2幕の終わりのところでアルフレートは新たにヴィオレッタのパトロンとなったドゥフォールに決闘を申し込み勝つが、第3幕のはじめはヴィオレッタが危篤状態でベッドに臥せっているところから始まる。このように目まぐるしく場面が変わるが、音楽がその時の情景にぴったりと合っているから違和感はない。テンポよくオペラが進行しているという感じだな。おや...>
石井は米原行きの新快速電車に乗車していて今日はびわ湖側の席に座っていたが、近江八幡を過ぎたあたりで車内が暗くなり周りが静止したと思ったら、突然窓の外に妖精のおじさんが現れた。おじさんは電車と同じ速度ですぐ近くを飛んでいて、ガッツポーズをして揺蕩いながら飛んでいたので、白黒アニメ鉄腕アトムの冒頭のタイトルの動画を思わせた。おじさんが車窓から消えるとすぐに石井の横に座っていたので、石井は妖精はこんなこともできるのかと驚いた。
「今日は、ここから米原の間やから30分足らずや。ほやから『椿姫』は最初やしあんまり細かいことは言わんとこ。『椿姫』について調べたと思うけど...」
「ええ、原作を書いた小デュマは『モンテクリスト伯』『ダルタニャン物語』を書いた文豪アレクサンドル・デュマの息子です。父の大デュマは、多くのエンターテインメント小説を残しました」
「で息子の方はどうやった」
「息子は花街に入りびたりだったのか、父親が書いたような冒険小説や剣豪小説やフランス革命を描いた小説は残していません。もしかしたら生き残らなかったのかもしれませんが。この高級娼婦への愛を描いた『椿姫』だけが残っています。私は一度だけこの小説を読んだことがあるのですが、確か「私」がアルマンの話を聞くという形で物語が進んでいくというもので、亡くなった愛人ともう一度会いたいために墓を掘り返すとか今までないような小説だなと戸惑ったことだけを覚えています」
「そうやなー、死に目に会われんかったのやからアルマンの気持ちもわからんでもないけど、そこまでせんでもええのにというのはわしも思ったわ」
「小説『椿姫』が親の七光りで残っているのか、ヴェルディが小説『椿姫』をもとにして歌劇『ラ・トラヴィアータ(道に迷った女)』を作曲したから文庫本でも読めるのかはわかりませんが、私は多分ヴェルディの歌劇がなかったら残らなかったんじゃないかと思うんです」
「なんで、どこがあかんの」
「まずは高級娼婦を描いた小説というのが、中高校生に読ませられるかということですね」
「純粋な愛を描いた稀有な小説ということで未成年でも価値はあるんとちゃうのん」
「そうですね、ここはざっくばらんに話すしかないでしょう。お酒や花柳界が好きな人とあまり関心がない人とでは考え方が大きく違ってくるということです。ぼくは逆トンボになってもそんなお金は出て来ないので、小説『椿姫』は遠い昔にフランスであったよくある話というだけで興味はないのです。でも歌劇「椿姫」の方には心ときめかせる何かがあるような気がするので、それを掬ってみたいと思います」
「そうか、それやったら夜店の金魚すくいみたいにうまくやるんやでー」
そう言って、石井が差し出したレモンチューハイを受け取ると妖精のおじさんはいつの間にか電車から出て並走して飛び、石井に手を振るとぐんとスピードをあげて新快速電車を追い抜いて行った。