プチ小説「東海道線の妖精 9」

石井は3週間前に妖精のおじさんと話した時に、歌劇「椿姫」はデュマ・フィスが著した『椿姫』と違って心ときめかせる何かがあるような気がすると言ったので、歌劇「椿姫」のレコードを聴き直してみることにした。石井は本の方は一度読んだだけで文庫本も行方不明だが、レコードは4枚所持していて、一枚だけが日本盤で歌詞対訳があった。一番よく聴いたのは、マゼール盤でヒロインのローレンガーが魅力的だった、その次がカルロス・クライバー盤でコトルバスの歌唱がじんと来た。セラフィン盤ではステルラの歌唱が、ブレヴィターリ盤はモッフォの歌唱が素晴らしいが、全体としては少しまとまりがない気がした。石井は歌詞対訳を見ながら、アルフレードとヴィオレッタのやり取りを検証した。
<歌劇ではアルフレートが舞踏会で見初めたのではなく、以前から病気で苦しんでいるのを気にしていたと言っている。そうしてこんな水商売はやめて私と一緒に静かに暮らそうと切り出す。アルフレードの親切な申し出はヴィオレッタの琴線に触れて、愛が増幅された。その後はアルフレードはヴィオレットの心をつかんで華やかなパリから離れての生活を始める。しかし...そんなふたりの住居にヴィオレッタが一人でいる時にアルフレードの父親ジョルジョ・ジェルモンが現れて、アルフレードの妹の縁談に差し支えるからと翻意を促す。ジェルモンの願いを受け入れて、ヴィオレッタはパトロン頼みの生活に戻っていく。アルフレードはヴィオレッタの裏切りと考えて、新しいパトロンと決闘したりするが...第3幕ではそれまでとガラリと雰囲気が変わり、ヴィオレッタが臥せっている病室で前奏曲が流れるが、それまでの曲とまったく違ったこころに染み入る悲しみに満ちた曲だ。そうして悲しい別れがやって来る。病床での愛する人との別れは歌劇「ラ・ボエーム」と同じようだが...>
石井がふと車窓に目をやると、妖精のおじさんが鉄腕アトムのようにガッツポーズで揺蕩いながら新快速電車の側を飛んでいた。おじさんは石井に手を振ってスピードをあげて視界から消えると、いつの間にか石井の向かい側のシートに座っていた。
「いつも楽しい演芸を披露してもらってありがとうございます」
「そうや、わしは石井君が気に入ったから、いろいろ楽しませてあげているんや。そやからそれに礼を言ってくれると、よっしゃ次も頑張ろと思うんやで」
「恐縮です。ところで歌劇「椿姫」ですが、ぼくはこの物語(ピアーヴェの台本)が面白いのは、小説と違って第3幕に重い病気にかかった昔の恋人の別れを持ってきたところだと思うんです。第1幕の華やかさ、第2幕の明るいふたりでの生活から別れ、第3幕の永遠の決別と段々と物語は沈んで暗い気持ちになりますが、これが自分の人生で起きたことだったら、本当に辛くてやりきれないでしょうが、演劇や歌劇のオペラの最後の場面としたら、これほど盛り上がるものはないでしょう。明日への活力には繋がらないでしょうが、ヒロインの驚き、喜び、悲しみなどの感情がそこここで見られて、ヴィオレッタの言動に心が動かされます」
「そうやなぁ。このオペラの中のヴィオレッタの発言というか歌声はほんまに心にしみるところがある」
「舞踏会で大胆に男性たちに自分の魅力を見せつけていた女性が、アルフレードの登場で愛する人のために生きる女性に変貌し、二人だけでパリ郊外での生活を始める。生活はうまく行くかと思われたが、アルフレードの父親が現れて、ヴィオレッタは説得されて元の高級娼婦に戻る。ヴィオレッタの新しいパトロンとアルフレードとの決闘があった後に、アルフレードは国外に逃亡するが、父親の取成しでアルフレードはヴィオレッタのもとに戻って来る。しかし時すでに遅く、肺結核が進行していた」
「ううっ、ほんでそのあとあまりに悲しい最後の別れとなるわけや」
「そうそれから最後の「パリを離れて」を歌うのです」
「パリを離れて、「永遠に離れることなく」「誰にも遠慮することなく」二人で愛し合いましょう。そうすれば病は治り、希望が出て来る。これを繰り返しているうちに、ヴィオレッタが力尽きて、やがてこと切れる」
石井が目頭に涙を滲ませているのを見て、おじさんは感動しているようだった。
「ほんま、こういうよくある話で感情を高ぶらせるのは人間だけなんや」
そう言いながら、講師の先生がしゃくり上げたので、石井は愉快な気持ちになった。
「そういうあなただって、泣いているじゃないですか。でもこんな気持ちにさせるヴェルディは凄いなーと思います」
「ヴェルディだけやのうて、デュマ・フィスの小説、それを元にしたピアーヴェの台本があったからこんな立派な歌劇が出来た。3人の力が合わさったからええもんが出来たんやと思うよ...そういうことでこの歌劇から何を学ぶかやが、以上のことを踏まえた上で、どないしたら恋愛がうまく行くかを次回までに考えといて」
電車が停車したので、石井は駅名の表示を探した。高槻とあったので、石井は慌てて、缶チューハイ2本をおじさんに渡した。
「いつもおおきに。でもな、わしは依存症やないからそんなにようけもうてもあまりうれしゅーない。次はポテチとか🍘とか🍎とか🍍とか🦑とか🍰の方が有難いと思うんや」
石井が、じゃあ、次回は食べ物を持参しますというと、おじさんはにっこり笑って雑踏に消えた。