プチ小説「東海道線の妖精 12」

石井は妖精のおじさんから、歌劇「タンホイザー」の際立つところと学べるところを考えてほしいと言われたので、サヴァリッシュ指揮の「タンホイザー」を聴きながら多角的に考えてみた。
<歌劇「タンホイザー」について考えるなら、このレコードでタンホイザーを演じているヴォルフガング・ヴィントガッセンを抜きにすることはできないだろう。ヴィントガッセンは他のワーグナーのオペラにも出ていて、カイルベルト指揮の楽劇「ニーベルングの指輪」第2日「ジークフリート」、ベーム指揮の楽劇「トリスタンとイゾルデ」などは最高の歌唱と言われている。ぼくもヴィントガッセンの張りがあって力強いがその中にも哀愁がにじみ出ている歌唱が好きなんだが、余りにヴィントガッセンとタンホイザーが結びついてしまったので、コロ、ドミンゴの熱演も霞んでしまった。ヴィントガッセンはタンホイザーに成り切って、サヴァリッシュ指揮バイロイト祝祭管弦楽団の演奏に乗って最高の歌唱を披露して歌劇が盛り上がって行くが、見せ場としては、第1幕の最後の昔の仲間との再開の場面と第3幕のローマの語りと言われる場面だろう。ヒロインのアニア・シリア、ヴァオルフラム役のヴェヒターも素晴らしいし、一時はよく聴いていた。でも物語としては、享楽的な生活を送っていたタンホイザーが、ある日ふと故郷を思い出して帰ってくる。最初は友人たちが歓迎し、昔の恋人との恋愛関係(縒り)も戻り、友人たちから、よかったなー、エリザベートとお幸せにと言われているその尻から、歌合戦でヴェーヌスを讃える歌を歌ってしまう。そうして友人たちから厳しいことを言われて、やがてタンホイザーはローマへの巡礼の旅に出る。巡礼の間、エリザベートは遠くからタンホイザーを見守っているが、思いつめたエリザベートは、タンホイザーの無事を祈って自らの命を絶ってしまう。なんでーと言いたいところだ。タンホイザーだって、かつての恋人との新婚生活をしたかったために故郷に帰って来たのかもしれないのに、エリザベートはタンホイザーのためを思ってこの世から居なくなってしまう。そうして奇跡が起こって杖に目が出た、奇跡が起きて良かったなということになるんだろうか。いやいやヒーローとヒロインが最後のところで思いが果たせず悲しい気持ちで死んでいくのだから、たとえあの世で結ばれても幸せになれないと思う。そのあたりのことを妖精のおじさんに訊いてみよう>

石井は妖精のおじさんと約束した日に、新快速電車で米原に行ったが、改札口を出て帰りの切符を購入していると妖精のおじさんが声を掛けて来た。
「よう、元気にしとったか」
「わあ、こんな所で声を掛けられると、どこかに連れて行ってもらえるのかなと期待しますが」
「ええよ、比良山系より高いところまで登って、あんたと話をして京都駅のホームでお別れするちゅーのはどうかな」
「ええ、是非そうしてください」
「そしたら、きょうのおみやげを先にもろてええか」
「わかりました。今日はたい焼き6尾です」
「おおきに、ほたら、わしの腕に摑まってちょうだい。目ぇをつぶって3秒経ったら目ぇ開けてええから」
石井がそのようにすると、暗闇の中、宙に浮いて相当な高さまで上がり、遠くの夜景を眺めているのがわかった。
「山口先生、今日はここで授業されるのですか」
「そうこのシチュエーションは青空授業とは言えんから、満天の星空授業と言うべきかな」
「この辺りまで上がると街の明かりが届かないし、月が昇っていないし、星がよく見えますね」
「そう、これだけ雰囲気ようしたんやから、あんたも頑張ってや」
「では、行きます。やはり「ラ・ボエーム」「椿姫」と違って、「タンホイザー」はドイツ・オペラということもあって厳格な気がします」
「うーん、それはちょっと違うなぁ。それじゃぁ、さよならと言いたいところや」
「な、何ですか、一般論なんですが」
「わしはそういうありきたりのことを言うやつは嫌いや。もう、帰り」
「そんなーっ。す、すみません。改めますから話を続けさせてください」
石井と妖精のおじさんは肩を組んで並んで飛んでいたが、石井は窮屈な姿勢にもかかわらず大きく頭を下げた。その瞬間、おじさんの腕から離れて急降下を始めた。