プチ小説「東海道線の妖精 15」

石井は次回までに歌劇「魔笛」の中でタミーノとパミーナのやり取りについて纏めるようにと妖精のおじさんから言われたので、スイトナー指揮ドレスデン国立歌劇場管弦楽団のモーツァルト「魔笛」を聴きながら、自分と「魔笛」との出会いをいろいろ考えてみた。
<歌劇「魔笛」を初めて聴いたのは、NHK教育テレビだった。スイトナーがN響を振って、シュライアーがタミーノを歌ったが、3人の童子のコーラスが素敵だなと思ったことと夜の女王のアリア「復讐の炎は地獄のように我が心に燃え」が印象に残ったくらいだった。それから何年かしてDVDが発売されたが、あまりに高額だったので、手が出なかった。でもそれまでにスイトナー指揮ドレスデン国立管弦楽団のレコードが出ていることを知り、購入したのだった。シュライアーも出ていて、何べんも聴いたことを覚えている。ベームやクレンペラーの名盤があり、サヴァリッシュ指揮のDVDもルチア・ポップがパミーナを、エディタ・グルベローヴァが夜の女王を歌っていて興味津々だが、やはり馴染みのあるスイトナーのレコードに愛着を覚える。これを聴くと浪人することになってもがいていた頃を思い出すんだが、そんな時に力づけてくれたとも言えるかもしれない。「若者よ恐れるな」というアリアがあるのを知って、そこのところを興味を持って聴いた。内容はどうであれそんな些細なことでも、芸術作品と触れ合う切っ掛けになる。ぼくにとっては、「魔笛」の「若者よ恐れるな」は、「復讐の炎は地獄のように我が心に燃え」と同じくらい大切なアリアなんだ>

石井はいつものように新快速駅で米原駅まで行き折り返したが、妖精のおじさんは久しぶりに能登川駅で電車に乗り込んだ。
「ほたら、早速、タミーノからパミーナへの愛のささやきから発表してもらおかな」
「対訳付きのDVDを持っていないので詳細の確認はできないのですが、タミーノとパミーナとが居合わせるのは、第1幕の最後の場面(ほんの少しの時間ですが二人は急速に接近します)と第2幕のこれからタミーノが辛い修行に入る場面(ここでも二人は会話を交わしません)と第2幕フィナーレの修行を無事終え、二人が結ばれるという場面で、修行中はパミーナの問いかけに応えてはいけないと神官ザラストロから言われていますから、二人が甘いささやきを交わすということはないように思います。パミーナの受け止めとしては、これだけあなたと結ばれたいと思っているのに冷たすぎると思っているのではないでしょうか」
「そやけんど、第1幕の最初のところで、タミーノはパミーナの絵姿を見せられて、一目惚れしとる。「なんと美しい絵姿」というアリアを歌っとる。絵姿を見て一目惚れをしよったわけや。そうして一目会いたいと願う。彼女と一緒になれたら...まるでスターに憧れる末端のファンクラブ会員のようや。しかしそんなんでもやはり王子は王子で、もう一度ザラストロに二人は別れ別れにさせられるが、最後の最後で二人は再会し...最後は太陽が夜を追い払ったとか歌って、二人が結ばれた。めでたしめでたしで終わっとらん。そういうところは、単なるおとぎ話ではなくて深い意味があるんやろけど、恋愛とは関係ないことなんで、省略させてもらうわ」
「このオペラの教訓というか、学ぶべきところはいくつかあると思います。その一つが、第1幕の最後で二人が初めて顔を合わすところで、二人はお互いを確認してひしと抱き合います。ほんの2、3分でこれだけのことをやり遂げるのですから、愛の力はほんとに凄い、お互い愛し合っていれば何も怖いものはないという気がしますが、第2幕になるとパミーナはタミーノが何も言ってくれないと嘆き、タミーノは無言の修行(パミーナになにも言えないこと)はこんなに辛いものなのかと思います。最後は、パミーナは3人の少年に導かれて、タミーノは僧侶に導かれて再会し結ばれ、パパゲーノとパパゲーナも結ばれて、めでたしめでたしで終わりますが、太陽が夜を追い払ったとかが前面に出て、タミーノのパミーナが結ばれてよかったねで終わっていない気がします。このオペラの教訓としては、神官(勤め先)の命令には恋人の甘い囁きも我慢して従わなければならない。それでもチャンスがあれば、それが短時間であってもうまく活用するということでしょうか」
「そうやな、わしもそう思うよ。そしたら、「魔笛」はここまでとして、次に何をしてもらおかな」
「正直に言いますと、ぼくがよく知っているオペラというと、「ラ・ボエーム」「椿姫」「タンホイザー」「魔笛」だけです。後は少しわかるのが、「トロヴァトーレ」と「トスカ」くらいですね」
「そうか、ほんなら次は、ヴェルディの歌劇「トロヴァトーレ」、その次はプッチーニの歌劇「トスカ」ということにしよ。その次のことをわしは考えとくわ」
石井がスタミナドリンク10本セットを手渡そうとすると妖精のおじさんは、これ以上元気になったら困るんやと言って受け取らず、京都駅で電車を降りた。