プチ小説「東海道線の妖精 17」
石井は2、3週間に一度妖精のおじさんに会って教授してもらっていたが、最近は週末の空いた時間は先生の講義についていけるようにと以前購入した歌劇のレコードやCDなどを聴き直していた。
<ぼくがクラシック音楽を聴くようになったのは高校を卒業してからで、それから歌劇を聞くまでには数年かかった。器楽曲なら勉強の時にBGMで聴けるからいろんな種類の演奏を聴いたが、歌劇は内容がわからないといけない、聞き流しはできないと思って、ひとつの楽曲の内容をよく理解してから聴こうと考えた。大学3回生になって、何か歌劇が聴きたいと考えた時に最初に聴こうと思ったのは、ワーグナーの「タンホイザー」だった。1回生と2回生でドイツ語を習っていて、タンホイザーというのは、森の住人の意味だからそういう素朴な内容の曲なのかなと思っていた。また今頑張っていることの後押しをしてくれるようなそんな力が湧いてくるような序曲だったので、きっと若い頃に聴いてためになると思った。それでサヴァリッシュ盤を購入して、レコードを聴きながら、対訳を読んだんだが、序曲が終わると、最初のところでタンホイザーがヴェーヌスベルクでの淫らな生活に飽きてふと故郷ヴァルトブルクを思い出して、ヴェーヌスの静止を振り切って故郷へと向かう。巡礼と出会ったりして敬虔な気持ちを取り戻して、友人とも再会し、タンホイザーは故郷に無事戻ってくる。恋人エリザベートとの再会を果たして、友人たちはそれを祝ってくれる。領主ヘルマンが登場して歌合戦となるが、そこでタンホイザーがヴェーヌスを讃える歌を歌ってしまったため、一瞬和やかな雰囲気が途切れる。その後も執拗にタンホイザーがヴェーヌスを讃えたため、領主ヘルマンの怒りを買い、教皇の許しが得られなければヴァルトブルクに戻れないことになる。それからタンホイザーは巡礼の旅に出るが、教皇から許しが得られず、「杖に芽が生えないように、お前は救われない」と言われたのだった。そこにタンホイザーの無事を祈って自らの命を絶ったエリザベートの葬列が現れて、究極の悲劇という状況になり、タンホイザーは悶死する。そのあと杖に芽が生えて、奇跡が起こったということになり明るい希望に満ちた音楽が鳴り響いて幕となる訳だが...>
石井は、ある中華料理チェーンの景品の餃子型の時計をいじりながら、先を続けた。
<このオペラは最初から最後まで緊迫感が漲っていて、ワーグナーが若い頃の情熱を注ぎ込んで創作したということがよく分かる。ただ余りに最後が悲惨だし、二人が天国で結ばれて、ああ良かったなという気になれない。恋愛がうまく行くためにはどうすればよいかということを学ぶのだから、やはり幸せな生活が先に待っているというのでなければ、その作品を掘り起こす意味があるのかと思ってしまう。山口先生は、多分オペラ全編を通してみてサクセスストーリーという必要はなく、ちょっとしたところで参考になるような箇所があれば、そこから学ぶものがあると考えているようだ。だからタンホイザーの破天荒な行動ばかりでもこのオペラのどこかに恋愛に役立つものがあると考えておられる。プッチーニの「ラ・ボエーム」、ヴェルディの「椿姫」、モーツァルトの「魔笛」にも学ぶところがあると考えたと思う。それはもっともなことだと思うのだが...このプッチーニの歌劇「トスカ」はさすがに学ぶところはないと思う>
石井は、餃子時計のアラーム音”餃子が旨いー ♫”を鳴らして、遠くを見るような眼をした。
<歌劇という体裁を取るのだから、やはり音楽が美しくなければ、後世に名を遺すようなオペラにはならないだろう。歌劇「トスカ」には、「歌に生き、恋に生き」「星は光ぬ」というアリアがあって、観衆の涙を誘うが、物語は危険な活動をしている人物をかくまったとして警視総監スカルピアに恋人のカヴァラドッシが逮捕され、カヴァラドッシを救おうとトスカはスカルピアに近づくが、救出できず、カヴァラドッシは処刑され、スカルピアはトスカにナイフで刺殺され、トスカはカヴァラドッシを救えなかったと身を投げて死んでしまうという悲惨この上ないストーリーなんだ。ストーリーと関係なく、アリアが素晴らしいということはよくあることで、ガラコンサートというのはそういったすぐれたアリアをピアノ伴奏で披露するものだから、後世に名を残しているアリアはひとつの作品とも考えられるのかもしれない。でも、なんで「トスカ」なのかな。ヴェルディの「オテロ」、プッチーニの「蝶々夫人」、モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」、ワーグナーの「ローエングリン」の方がわかりやすい気がするけどなぁ。先生は、文学やマンガからも学べると言われていたので、今度は文学でどうですかと尋ねてみよう。その前に先生に今度お会いした時に、「トスカ」の2つのアリアについて説明できるように調べておこう>
石井が窓のカーテンを見ると西日が強く射していて、薄いあずき色のカーテンがオレンジ色に輝いていた。