プチ小説「東海道線の妖精 18」
石井は妖精のおじさんに出会ってから半年近く経過していたが、幼馴染みの女性松子との恋愛という実践にはほど遠く、机上の空論ばかり交わしているような気がしたので、一度そのあたりのことを講師の先生がどのように考えているか尋ねてみようと思った。妖精のおじさんは、今日は能登川駅で電車に乗り込んできて、石井の前に座った。辺りが暗くなり、周りの人は静止した。
「元気にしとったか」
「ええ、でも最近考えるようになったんです。こうして3週間に一度金曜日の夜にいろいろためになる話を聴かせていただくのですが、まだ一度も実践に至っていません。実践はいつできるのでしょうか」
「石井君が言う実践というのは、松子さんと会って話をして、探り合いをしたり、ばかし合をしたりちゅーことやと思うけど、まだ早いと思うわ。少なくとも今のカリキュラムが終わらんとあかんなぁ。まあ今は大学生で言うたら、1回生の教養科目を勉強しているといったところかな」
「教養科目なんですか。オペラの内容を検討するのは。でもそれだったら、実践をするまでには、まださらに専門科目もしないといけないんですか」
「そうやな、教養科目というのは例えで、大学とまったく同じことをするわけやない。まあ、教養科目でわしのやり方に慣れてもらって、それを専門科目で展開していくということなんや。大学やったら、冊子を配布してわかりやすく説明してくれるけど、残念ながらわしは委任されてはおるけど、個人商店のようなものやから、そんな冊子は用意でけんし、説明するのは行き当たりばったりや。そこんとこは堪忍してもらわんと...」
「わかりました。それでは教養科目の授業を引き続きよろしくお願いいたします」
「そしたら、今日は、プッチーニの歌劇「トスカ」をするんやけど、あんたはこのオペラをどう思う」
「ぼくが、このオペラを知ったのは、カルーソーが歌う、「星は光りぬ」をSPレコードの復刻版を聴いた時で、その頃は、オペラの全曲を聴くことなど、芥子粒ほども考えていませんでした。餡パンはその頃から大好きでしたが...。とてももの悲しい曲調で、後で知ったことですが、死刑を宣告され、恋人と引き離され、一人ぼっちで銃殺刑にされる男が悲しみの極みの中で言葉を振り絞り出すようにして歌う曲です。この歌の中で歌われるのは、残していく恋人に対して熱い思い、というよりもう二度と触れ合うこともできなくなったことで絶望的になっているという感じです。これは愛の歌ではないと思います。出来ることなら、こんな悲惨なカヴァラドッシのシチュエーションなんかにはなりたくないと思います。この歌劇にはもう一つ「歌に生き、恋に生き」という名アリアがありますが、こちらはヒロイントスカが歌うアリアですが、こちらも毎日一生懸命信心深くしていたのにどうしてそれが報われないの。芸術や愛に生きて来ていたのに、悪いことをしたこともないし、困っている人には手を差し伸べて来た。そんな私なのに(スカルピアの強引な押しつけに屈しようとしている)。あんまりだわという内容の歌です。こちらからも、恋愛の時の甘いささやきというものはゴマ粒ほどもありません。大学芋も好きですが...」
「わしも大学芋は好きやけど、トスカはあまりに気が強すぎるから好きにはなれん。そやけどカヴァラドッシやスカルピアが霞んでしまうくらいの個性は、新しい時代のヒロインとしてもてはやされたんやと思う。きれいやけど気が強くてちょっと危険な感じがする女性が、当時の好事家の男性たちに好かれた。それがいつの間にか一般的になった。トスカ、カルメン、ヴィオレッタ、タイス、マノン、サロメ、マクベス夫人、イゾルデなんかは、一時言われた「飛んでる女」というカテゴリーに属する人たちで、普通やったら近づけへんけど、独特な雰囲気に魅せられてお友達になりたいと思う男がようけおった...」
「でもヴィオレッタだけは改心しているので、他のヒロインと一緒にするのはかわいそうな気がします。トスカも恋人が無実の罪で警察に連れ去られたので、何ものをも恐れない強い女になったという背景があると思います」
「まあ、松子さんは普通の女の子やから、トスカの言動は参考にならんかもしれん。そやけど女性の心理を知るためには参考になると思う。好きな人のためなら自分を投げうってでもという気持ちは...」
「でも、前の「トロヴァトーレ」のレオノーラにしても、トスカにしてもヒロイン、ヒーローともに死すというわけで、報われていない。死んでしまったらその人の人生はお終いですから、やはり別の作品を参考にした方がいいかと思います」
「そうか、それやったら、次はヒーロー、ヒロインともに生き残って、幸せに暮らすという結末の歌劇「セビリアの理髪師」で行こか」
「そうですね。たまには明るいオペラがいいですね」
石井が、米原駅構内のコンビニで購入したおでんを手渡すと、妖精のおじさんは、わし、スジ肉とダイコンと厚揚げが大好きやねんと言って、大津駅で下車した。