プチ小説「東海道線の妖精 20」

石井が現在住んでいる吹田市南部には生まれた時から住んでいるが、生まれたのは家の近くの市民病院だった。父親がJRの技術者で、結婚してすぐに昔で言う国鉄アパートに住むようになったのだった。石井は家の近くの小学校に通ったが、通学時間が5分もかからなかったので、朝寝坊しても充分学校に間に合った。しかし中学校は片道40分近くかかったので、午前8時前には家を出て学校に向かった。途中寂れた川があり堤防沿いの道を退屈な思いで歩いたものだった。あーあ、清流が勢いよく流れて、花があちこちに咲いてくれたらまだ退屈しないで済むのに、何もないんだからとよく独り言を言った。石井はスポーツマンで女の子に優しかったから、何人かの女の子からプレゼントをもらったりしたが、それだけで終わった。あがり症なのと筆不精のためで、声を掛けた女の子は興味を持つが進展しないので離れて行った。
それでも中学3年生の秋、帰るのが遅くなって午後6時半頃その堤防沿いの道を歩いていると、家の近くに住む松子が声を掛けて来た。
「石井君、今、帰りなの」
「うん、進学のことで友だちと話していて遅くなって」
「でも、進学する高校は、3年生になった時にだいたい決まっていたんじゃないの」
「ぼくはK高と最初から決めているけど、合格の可能性が6割くらいだから迷っているんだ。君はどこに行くの」
「私はI高なんだけど、7割くらいかな」
「そうか君はエリートなんだね」
「そんなことはないわ。でも今日は月も星もきれいね」
「そうだね。三日月よりもっと細身の月が沈みかけていて、金星が輝いている。今の頃の金星はいつもより一層輝いて、周りの日没の頃の空のグラデーションと調和している。それに今日は月もきれいだし...」
「そうね。こんな夕暮れに告白されたら...」
「えっ、何か言った」
「ううん、こんな美しい景色の中を好きな人と歩いていると心が時めくんじゃないかなと」
「ぼくが君のお相手ができたらと思うけど...高校受験があるし」
「そうね、わたしたちまだ中学生だから、時間はこれからいくらでもあるし」
「そうさ、高校生になったら、この町のどこかで出会うだろうし、その時に話の続きをしようよ」
「わかったわ、そうしましょ」

そう言ってふたりが別れてからは、石井は授業が済んだらすぐに家に帰り、受験勉強をするようになった。そのおかげでK高に入学できた。しかし石井はJR東海道線を利用して通学、松子は阪急電車を利用しての通学で帰り道で出会うことはなく、大学は石井が京都の大学、松子が東京の大学に行ったので、石井はもう会うこともないかと思った。
石井が就職してから10年が経過して、一人旅で山陰を旅行した時に津和野の駅で降りて、城山に登った。良い天気だったので城山から市街が見渡せたが、ふとベンチを見ると二人の石井と同年齢の女性がいて石井の方を見ていた。そのうちの一人の女性が石井に声を掛けた。
「記念写真を撮りたいんですが、シャッターを押してもらえますか」
その後3人はベンチに腰を掛けて話したが、それはもう一人の女性が松子だったからだ。松子はより女性らしくやさしい感じになっていたので、石井はわからなかったが、松子は一目見て石井だとわかった。松子は言った。
「石井さん、あの頃と全然変わっていないわね。私、変わったでしょ」
隣に女性がいて、2対1での会話は初めてだったので、ほとんど会話が弾まなかった。それでも松子が独身であること、現在、京都に住んでいることだけはわかった。お互いの住所を交換して別れたが、石井は、1対1ならもう少し話せたのになぁと口惜しがった。