プチ小説「東海道線の妖精 21」

石井は、待ち合わせの場所に着くまで妖精のおじさんからの課題について考えてみた。うまい具合に京都を過ぎると4人掛けの他の3つの座席に人がいなくなったからだった。
<山口先生は、歌劇「セビリアの理髪師」から恋愛のテクニックを学べと言われているが、この喜歌劇というか、悲劇でないオペラは特別な存在だと思う。というのも元来人間というのは、悲しみや怒りには大きく心を動かし、共鳴しやすい。それに対して笑いというものは人それぞれ受容体が違う気がする。ある人にとっては涙を流して笑うようなことも別の人にとっては、なんやそれで終わってしまう。こんなふうに人によって受け止め方が違うので、喜劇、喜歌劇それからユーモア小説なども創作を始めるのには一大決心が必要だと思う。シェイクスピアもファルスタッフが登場する作品や『真夏の夜の夢』などの喜劇をたくさん書いているが、ぼくにとっては、なんやそれの世界なんだ。もしかしたら、物語の内容をよく理解して登場人物の奇抜な衣装を見たら爆笑できるのかもしれないが、今のところできていない。でもこの「セビリアの理髪師」は幸運にも、アバド指揮のDVDで内容がよく理解できた。「セビリアの理髪師」が面白いのはやはり、登場人物が面白おかしいからで、ヒーローのアルマヴィーヴァ伯爵やヒロインのロジーナも例外ではない。フィガロはもちろんユーモラスだが、忘れてならないのは、ロジーナの叔父に当たるバルトロなんだ。ロジーナ―がアルマヴィーヴァ伯爵に奪われないようにとあれこれバルトロが画策するのを、フィガロの知恵を得て、アルマヴィーヴァ伯爵が切り返すといった内容なんだが、バルトロは自信たっぷりで、「わたしのような医者に向かって」と歌っている。このアリアの後半部分は歌唱の技巧を凝らして異常に盛り上がって本当に面白い。とにかくバルトロが登場するところは、この歌劇の見せ場になっていると思う。愛の歌というのを上げると、やはりロジーナが歌う「今の歌声は」とリンド―ロと名乗って歌うアルマヴィーヴァ伯爵のアリア「空はほほえみ」だろう。どちらも相手への思いを熱く歌っている>
石井がふと前を見ると、妖精のおじさんが座っていた。石井は思わず、早いですねと言った。
「そうやね。でも今日は別のこともしたいと思うたから...もうすぐ米原やで、降りよか」

妖精のおじさんは米原駅で下車すると、タクシー乗り場でタクシーを拾った。二人が乗車すると妖精のおじさんは話し出した。
「しばらく黙っていてな。おもろいことが始まるから」
タクシーがしばらく走ると、運転手が妖精のおじさんの方を見てにっこり笑った。そうしてそろそろ行きまっっせーと言った。
「何が始まるんですか」
と石井が言う間もなく、タクシーには飛行機のように翼が生え、琵琶湖上空を飛んでいた。
「こ、これは凄いですけど、脈絡がないように思います。これからこの乗り物に乗って松子さんのところに行くのですか」
「それはまだなんやけど、こういうもんも使えるというのを知っといてもらおうと思うてな」
「でも、定期券やタクシーチケットがあるわけじゃああるまいし、それにいつもこのタクシーが駅前に止まっているんですか」
「そう、わしは全面的に石井君と松子さんの恋愛がうまくいくようにサポートするように決めたんや。ほら、これがタクシーチケット。いろいろ制約があるけど、瞬間移動ができるから便利やで」
「どういうふうに使えばいいんですか」
「チケットを取り出してタクシー乗り場で待ってたら、タクシーはやってくる。、松子さんのところまでと言えば、近くまで行ってくれる。そやけどちゃんと履修科目を修了せんとこのチケットは使えん。それまではお預けや。でもあんたがまじめにわしの講義を続けて聴いてくれたら、松子さんに会える日は近い」
「そうなんですね、闇雲だったのが明るく開けた気がします」
「そう思うたんやったら、まじめに頑張るんやで...そしたら石井君はちょっと目を閉じてちょうだい」
ふたりは、大阪方面に向かう快速電車で向かい合って座っていた。
「ところで石井君は、「セビリアの理髪師」は好きか」
「魅力いっぱいのオペラでアバドの演奏も優れている、映像も素晴らしい。でも...」
「そう恋愛の極意みたいなものはない。「今の歌声は」も「空はほほえみ」も軽い感じやし。バルトロひとりが目立っとる。でも楽しいオペラには違いない。それでこのオペラはこれでええかなと思っとる。ほんで次は、オペラやなくて文学作品を考えとる」
「何をするんですか」
「最初は、概論やな。どんなんがあるか。ふたりでああでもない、こうでもないと考えへんか」
「それも面白いですね」
そう言って、石井が、大阪名物みたらし小餅を妖精のおじさんに渡すと妖精のおじさんは、おおきにと言って草津駅で下車した。