プチ小説「東海道線の妖精 22」

石井は妖精のおじさんから、次は恋愛小説の概論を勉強しておくようにと言われたが、あまりにたくさんあるので、どうしようかと思った。
<ぼくは恋愛小説というのに興味を持ったことがなくて、西洋文学で興味があるものだけを読んで来た。大学時代の友人にアメリカ文学を専攻しているのがいて、ヘミングウェイ、スタインベック、サリンジャー、アップダイクや現代のアメリカ文学の作家の文庫本をいくつか読んだが、馴染めなかった。心から感動させるというものでなかったし、一度、ヨーロッパの文学作品を読んでからにしようと考えたんだ。そうしていくつかの長編小説を読んだが、『モンテクリスト伯』『ダルタニャン物語』『戦争と平和』『デイヴィッド・コパフィールド』『ジェイン・エア』『自負と偏見』なんかは楽しく読ませてもらった。特にディケンズは登場人物が生き生きとしていて、シチュエーションの描写が秀でているので魅力を感じた。彼の代表作『大いなる遺産』『二都物語』『オリヴァー・ツイスト』だけでなく、『リトル・ドリット』『荒涼館』も面白かった。でもディケンズの小説の中で、目立つカップルと言えば、『大いなる遺産』のピップとエステラなんだけど、これは最後に取っておきたい気がする。『リトル・ドリット』のクレナムとエイミー、『荒涼館』のヒロインエスタ・サマソンの恋愛も興味深いし、ディケンズは最後のところであれこれ検討出来たらと思ってる。わかりやすいのは、『ジェイン・エア』『自負と偏見』あたりじゃないのかな」
石井は近くにある本棚から中野好夫訳『自負と偏見』を取り出してきて、ページをぱらぱらとめくった。
「ぼくがイギリス文学が面白そうだなと思った切っ掛けは、この中野訳の18世紀末の田舎を舞台にした小説なんだ。200年も前の話なのになんと実感があってわかりやすい。それまで読んだものと違って、自然に現代小説を読むように受け入れられた。それまでは古い小説は擬古文のような文体で書くものと思っていたのが、覆された。それからしばらくは中野氏の翻訳ばかり読んでいた。モームの『月と六ペンス』『人間の絆』『剃刀の刃』、スウィフトの『ガリヴァ旅行記』、スコットの『アイヴァンホー』それから忘れてならないのが、ディケンズの『デイヴィット・コパフィールド』と『二都物語』なんだ」
石井はその横にある小池滋訳『オリヴァ・トゥイスト』を取り出して、こちらも同じことをした。
「ディケンズに興味を持ったぼくは、新潮文庫の他の小説、『大いなる遺産』『クリスマス・カロル』も楽しんで読んだが、講談社文庫のこの小池氏の翻訳がわくわくさせるものだったので、ディケンズ・ファンに拍車を掛けた。学生時代には思いつかなかったが、社会人になってから、小池氏の訳で、『リトル・ドリット』『バーナビー・ラッジ』それからこれは、青木雄造氏との共訳だけど、『荒涼館』を翻訳されていることを知った。また日高八郎訳『大いなる遺産』の第2部のところは小池氏が訳したとのことだ。それから忘れてならないのが、ディケンズの未完の小説『エドウィン・ドルードの謎』も小池氏は素晴らしい翻訳をされている。小池氏は、シャーロット・ブロンテの『ジェイン・エア』も訳されていて、こちらも楽しく読ませてもらった。これはないものねだりになってしまうけど、他のディケンズ作品も翻訳してほしかった。特に全然面白く思わない『マーティン・チャズルウィット』『ハード・タイムズ』なんかも、小池氏なら明快な訳で登場人物をリアリティがあるものにし、情景描写もシチュエーションも眼前にあるように捉えることができただろう」
石井はその横にある北川悌二訳『ピクウィック・クラブ』を取り出した。
「今のところ、ディケンズの『ピクウィック・クラブ』『骨董屋』『マーティン・チャズルウィット』はこの人の訳しかないが、『ピクウィック・クラブ』だけでも他の人の訳が出ないかな。『マーティン・チャズルウィット』は全部で1500ページくらいあるけど、登場人物がつまらないし、状況もよくわからない。主人公もマーティン老人なのか、同姓同名の若いマーティンなのか、最後に罰せられるペックスニフが主人公なのかよくわからない。まあ、それはそれとして、イギリス文学には、スターンの『トリストラム・シャンディ』やジョイスの『ユリシーズ』という度肝を抜くような物凄い小説もある。どちらも恋愛小説とは言えないから、今回の学習の対象にはならないだろうけれど、ブルームの行動について君はどう思うなんて訊かれるとへどもどしてしまうだろうな。でも山口先生はどんな解説をしてくれるのか、楽しみだな」