プチ小説「東海道線の妖精 23」
石井はいつものように仕事を終えてから、JR吹田駅構内の眠眠で中華飯を食べてから高槻駅で新快速に乗り換えて米原に向かったが、近江八幡で他の3つの席に人がいなくなったので、独り言をはじめた。
<山口先生は、情熱的にオペラの話をしてくださったが、文学はどんなんだろう。「最初は、概論やな。どんなんがあるか。ふたりでああでもない、こうでもないと考えへんか」と言われていたが...>
石井が顔を起こすと、妖精のおじさんがいた。
「石井君はいろいろ考えてくれたやろけど、今回はなんで石井君が西洋文学に傾倒していったかから始めようと思う」
「そうですか。で、どのくらい昔から始めます。小学生の頃は、新見南吉の『ごんぎつね』が印象深いですが」
「いいや、今回のテーマは、なぜ西洋文学に傾倒したかちゅーことや。そやからなんで日本文学をあまり読まんようになったかや」
「それは端的に言うと、古文と難しい表現が苦手だからということに尽きます」
「まあ、時間があるからなぜそうなったかを詳しく話してくれへん。一旦降りて、改札口を出てから売店で、小鮎の佃煮買うてから大阪行きの新快速に乗ろか」
石井は1000円のお土産用の佃煮セットを先生にプレゼントしてから、改札口を入り大阪方面行きの新快速に乗車した。二人が4人掛けのシートに座るとすぐに電車が動き出し、しばらくするとあたりが暗くなった。
「お土産ありがとう。ほしたら続きを話してちょうだい」
「母親が本屋でパート勤務をしていたので、本屋で時間を潰すことが好きになりました。当時は今のように雑誌は子供向けの雑誌ばかりで書店の棚は、全集もの、文庫本、ハウツーものが多かったと記憶しています。それで書店内を彷徨っているうちに、いろんな作品の題が跳び込んで来ました。『ああ無情(レ・ミゼラブル)』『三銃士』『足ながおじさん』『小公女』『十五少年漂流記』『ギリシア神話』「ロメオとジュリエット』『クリスマス・キャロル』『若草物語』『トム・ソーヤの冒険』『巌窟王(モンテクリスト伯)』なんかの世界文学、それから日本文学はいくつかの作品で1冊のハードカバーになっていることが多くて、夏目漱石、芥川龍之介、川端康成などの作家の作品のハードカバーがありました。でもハードカバーは持ち運びが不便で2段にぎっしり活字があるということで、携帯に便利な200ページくらいの文庫本ばかりを読むようになりました。高校生までは西洋文学を読もうと思ったことはなく、日本文学ばかりを読んでいました。といっても古文、擬古文には歯が立ちませんでした。古典はもちろん森鴎外をはじめ擬古文で書かれた近代文学の本を手に取ることはありませんでした。そんなぼくがどんな本を読んでいたかと言うと、当時SFブームだったこともあり、星新一の新潮文庫はよく読みました。それからユーモア小説の井上ひさしと読みやすい文体の井上靖でしょうか。通学していた高校の近くの佐野書店を彷徨っての収穫はそのくらいでしょうか。梅田駅近くの紀伊国屋書店や旭屋書店に行くようになるのは高校を卒業してからだったと思います」
「日本の作家はそれだけなのかな」
「高校時代は、楽しむための本ばかりを読んでいましたが、浪人生となりやはり自分の血肉となるような本を読まなくてはと思うようになりました。日本文学では、よく夏目漱石と森鴎外の二人が並び称せられるというのがあったので、本屋さんでいくつか立ち読みをしたのですが、漱石は『草枕』意外は読めそうだなと思いましたが、森鴎外は擬古文が多くてほとんど読めませんでした。それでとりあえず漱石を読み始めました。『吾輩は猫である』『三四郎』『虞美人草』『それから』『門』『彼岸過迄』『行人』『道草』『明暗』『坑夫』を読んでさて次はなににしようかと考えました」
「漱石は面白かったのかな」
「少なくとも言っていることは分かりました。どれだけ理解できたかは別として。浪人生になって京都の予備校に通うようになったので、利用した阪急電車の中で文庫本を読もうと考えました。どうせなら今までほとんど読まなかった世界文学をと。翻訳がこなれていなければ途中で止めたらいいと考えて読み始めました。わかりにくい翻訳もありましたが、訳者はなるべく分かりにくい表現を避けて読者を楽しませてくれるので、難解な日本文学より、翻訳された西洋文学を読んだ方が自分には向いていると思い今に至っています」