プチ小説「東海道線の妖精 25」

石井は妖精のおじさんから、オースティンの『自負と偏見』について調べておくようにと言われたので、ネットなどで調べてみた。
<この小説は、文豪ディケンズが生まれた翌年1813年に出版された、Pride and Prejudice の翻訳で、ぼくが読んだのが、中野好夫氏の『自負と偏見』だったので、そう呼ぶが、一般的には『高慢と偏見』と訳されることの方が多いようだ。プライドと偏見があって好きになれなかった男女があることが切っ掛けで、お互いを理解するようになり、親密になり結婚に至る物語だが、その切っ掛けが、第35章にエリザベスが読むダーシーからの手紙で、この手紙によって、エリザベスからダーシーがなんてプライドが高いお坊ちゃんというプレジャッディスが取り払われ、お互いのことをよく理解した仲の良いカップルへと変貌していく。余談になるが、最初にこの小説を読んだ時は浪人生で、英米人がニックネームというか略称で呼び合うとうことを知らなかったので、エリザベスが、リジーと呼ばれることがわからず、リディア(ベネット家の五女 エリザベスの妹)が大活躍するんだなと思ったんだ。というか訳が分からなくなったんだ。この他にも登場人物の間で多くの手紙が交わされ、それが小説の展開を面白くしている。17~18世紀の小説では、手紙は重要な部分で、1740年に出版されたリチャードソンの『パミラ』は、その最高峰なんて呼ばれる。かなりエロティックで際どい場面がある小説で、こういうのが当時の読者の欲求だったのかとプレジャッディスを持ってしまうが、ヒロインパミラが書く手紙は確かに読者をわくわくさせる。ぼくは、海老池俊治氏の翻訳を読んだが、行が3段ある巨大なハードカバーだから、持ち運びに苦労した。筑摩書房の世界文学体系で、スターンの『トリストラム・シャンディ』(こちらは朱牟田夏雄氏が翻訳している)とで一冊になっている。そうそう、朱牟田氏の名訳にフィールディングの『トム・ジョウンズ』があり、こちらもヒロインソファイアがしばしば危険な目に合うピカレスク小説なんだ。『自負と偏見』『パミラ』『トム・ジョウンズ』をわくわくしながら読んでいた30代初めの頃が懐かしいな>

石井がいつものように米原駅で降りて、売店で先生に渡す手土産をどうしようかと迷っていると、気ぃ使わんとってと隣で声がした。横を向くと妖精のおじさんがいた。
「最近、石井君は高いお土産をくれるけど、わしはそんなもんで機嫌を損ねたりせーへんから、安心して。なんかくれたら、それで充分やから」
「そしたら、今日は給料前なので、ワンカップを2本ということで」
「よしよし、そしたらそれもらっとくわ」
妖精のおじさんが、パンダのイラストが描かれたトートバッグに石井からもらったものを入れるとふたりはいつの間にか4人掛けのシートに座っていた。
「ほんで、『自負と偏見』を調べたんか」
「ネットで調べただけですが...でもネットは便利ですね」
「まあ、今から読み直すちゅーたら、1ヶ月ではすまんやろから許したるけど、今、あんた何を読んどるん」
「先日、あるディケンズを研究されている先生の公演を聴いたのですが、大正から昭和にかけて活躍したユーモア小説の作家が面白いと言われたので、それを出来る限り読んでみようかなと思っています」
「何という名前なん」
「佐々木邦という作家で、今、第1巻の『いたずら小僧日記』を読み終えたところです」
「それでどうやった」
「主人公太郎のいたずらが酷くて、人を弄ぶようなえげつないものなので、天罰が下るよう願っていましたが、太郎は打擲や酷い怪我にも耐えて物語が終わりました。太郎のいたずらは爽快と言えるものではないので、少し後味が悪かったです」
「まあ、それほど熱中できるものなら、全部読むといい」
「ぼくもそう思っていますが、全15巻でしかも小さな字の2段なので、1年では読み終えられそうもありません。知り合いの船場さんは、3年かかって、『失われた時を求めて』と『ギリシア悲劇全集(人文書院)』を読み終えたと言っていましたから。まとまったものを読むのは時間がかかると思っています。その先生も言われていたのですが、読んで楽しくない本を敢えて読む必要はないと思いますから。楽しいこの小説をしばらくは...」
「そのとおりやで。そしたら、本題へと戻ろか」