プチ小説「東海道線の妖精 27」

石井は山口先生から、フィールディングの『トム・ジョウンズ』に調べて来るようにと言われたので、ネットで調べてみた。
<『トム・ジョウンズ』はピカレスク小説と言われるが、そもそもピカレスクというのは、ピカロpicaro(悪漢)が主役の小説を指すようだ。といってもこの悪役と言うのが単なる悪いことをする人というのではなく、謎めいた出生の秘密(トム・ジョウンズも育ての親の妹の子供だということが後でわかる)、人間関係がうまく行かなくなり旅に出る(トム・ジョウンズもブライフィルの悪だくみで育ての親に嫌われてロンドンに向かう)、若気の過ちを犯す(多くの若い女性と関係を持ち、恋人のソファイアに嫌われる)、そんな要素を持っている悪役(主人公)が活躍する小説で、悪い人が暗躍する小説ではないようだ。だからトム・ジョウンズも正義感が強い、おっちょこちょいで女性にもてるキャラクターになっている。そんなトムが登場する場面は明るく賑やかな感じがする。この小説で真の悪役となるのは、トム・ジョウンズが出生した後に同じ母親(育ての親の妹)が将校と結婚して生まれたブライフィルなんだ。もちろん物語の最後の方までそのことは妹(トムとブライフィルの母親)しか知らない。この小説の面白いところは、このジョウンズが苦境に追い込まれて、やむなく決闘をしたりどさくさに紛れて悪事をしたりするところにスリルを感じさせ、読者を引き込んでいく。清廉実直な人が羽目を外すのは、そんなことをしてええんかと言いたくなるが、トムならそれもええやん、ええんとちゃうというふうになる。だから真面目な人が読むと、到底許せないというふうになるのかもしれない。話は変わるが、3つの要素が全部なければピカレスク小説とならないということはなく、今ではもっと広義に解釈されている気がする。というのもトムのような主人公は、冒険小説の主人公には持ってこいだからだ。ディケンズの小説でも、『ニコラス・ニクルビー』の主人公だけでなく、『デイヴィッド・コパフィールド』の主人公が大叔母の家に辿り着くまでの少年時代はピカレスク小説な趣がある。この小説のカップルと言えば、トムとソファイアということになるが、トムは破天荒で女性に対して大らかだからソファイアをやきもきさせる。ソファイアも狩猟好きの地主の娘だからか大人しい淑やかな女性ではなく、活発で言わなければならないことはしっかり主張するから、物語はしばしば脱線するが、軌道修正が行われて大団円となる。ソファイアが自立したしっかりした女性なのは、トムの軌道修正をするために必然的にそうなったのかもしれない。この小説はまた読んでみたいのだが、いつになることやら>

石井が米原から大阪に向かう新快速に乗り、能登川駅に着くと妖精のおじさんが4人掛けの石井の向かいの席に腰掛けた。しばらくすると辺りは暗くなり、時間が静止した。
「どうやった。『トム・ジョウンズ』は」
「この小説は、本当に懐かしい小説です。この小説を知ったのは、サマセット・モームが『世界の十大小説』の中で紹介しているからなんですが...」
「長編小説好きの人には必読の書やな」
「先生もそう思われますか。ぼくはこの中の『デイヴィッド・コパフィールド』『高慢と偏見』『戦争と平和』を大学生の頃に読んだのですが、社会人になって他のも読みたいと思って読んだのが、『トム・ジョウンズ』でした。というのも、18~19世紀のイギリス文学が自分に合っていると思ったからです」
「腰を折るようやけど、他の小説は読んだのかな」
「学生時代に『赤と黒』に挑戦しましたが、まったく歯が立ちませんでした。スタンダールは『パルムの僧院』にも挑戦しましたが、読めませんでした。彼の文体を消化する酵素がぼくにはないようです。『ゴリオ爺さん』は読みやすかったのですが、結末が理不尽に感じてしまって。バルザックの人間喜劇は『谷間の百合』も読みましたが、理不尽さが残りました。そういうことだったので、フローベルの『ボヴァリー夫人』もフランス文学なので、読んでいません。多分一生読まないでしょう。メルヴィルの『白鯨』は最近古本を買って読みましたが、博物誌的な部分がほとんどで、ストーリー的なところだけを読みたければ、影丸譲也氏の漫画で充分な気がしました。ドストエフスキーは『罪と罰』『白痴』『悪霊』『死の家の記録』『未成年』などを読みましたが、『カラマーゾフの兄弟』は未完の小説なので足踏みしています」
「『嵐が丘』はどうなんや」
「ぼくはこのモームの選出に異論があって、断然、シャーロット・ブロンテの『ジェイン・エア』の方が読みやすくてハッピーエンドなので、選んでほしかったと思っています。ヒースクリフの性格が陰湿で狂暴なので主人公が悪人の小説はなるべく読みたくないなぁと思ったものです。『ジェイン・エア』のヒロインは好感が持てるので、新訳が出るたびに読もうかなと思います」
「ヒースクリフも嫌われたもんやな。おっと脱線もこのくらいにして、『トム・ジョウンズ』に戻ろか」
「そうしましょう」