プチ小説「東海道線の妖精 29」

石井は山口先生から、次回はモームの『人間の絆』をやろうと言われたので、ある本を取り出してきてページをめくった。
<ぼくがサマセット・モームという作家に興味を持ったのは、ほんの些細な切っ掛けからだった。ぼくは今は、中古レコード、古書、中古CD、楽譜などは立派なコレクターと言えると思うが、高校生の頃もあるもののコレクターだった。といっても大したものではないんだが...それは学生たちの間で有名な参考書を買い集めることだった。これなら自分の小遣いでなく、親がお金を出してくれたから割合とほしいものが手に入った。当時人気だったのが、高石ともやの「受験生ブルース」にも出て来る赤尾好夫氏の「英語基本単語集」(通称「赤尾の豆単」)だった。でもぼくはそれは買わずに森一郎氏の「試験に出る英単語」(通称「試験単(しけたん)」を購入してもらった。高校2年生の一学期の期末テストが最低の出来だったので、夏休みに当時大阪の曽根崎にあった旭屋書店で参考書を物色した。そこで目についたのが、原千作氏の「英文法標準問題精講」だった。精講という重々しい言葉に惹かれてこの本を購入したが、ざっと見てある例文が目についたんだった。「モームの小説は面白くて、何度も読みたくなる」だったか、「モームの小説は面白くて、時間を忘れて読み耽る」だったか忘れたが、とにかくモームの小説が面白いという内容の例文だったと思う。その後もぼくの参考書漁りは続き、浪人生の頃には、ラジオ講座も聞いていてその影響から、西尾孝氏の参考書を数冊購入したことを覚えている。今はこの「実践英文法」だけが残っているが、懐かしい本だ。「モームの小説は面白い」というのを高校生の頃に刷り込まれたので、浪人生になって西洋文学を読むようになるとモームの『月と六ペンス』『短編集』『お菓子とビール』『人間の絆』『剃刀の刃』を読んだ。『月と六ペンス』は代表作で結構面白かったが、『短編集』や『お菓子とビール』は好きになれなかった。『人間の絆』のクロンショーからもらったペルシア絨毯の秘密が解明されるところや『剃刀の刃』で人間の輪廻について解明される場面は心底感動したのは覚えている...ぼくは今でも恨みに思っていることは、そんな些細なヒント、こんな本を読んでみたらとか、こうしたら勉強が捗るよといった示唆を高校時代にまったく受けなかったことなんだ。当時はいろんなことを吸収しようと目と耳を全開していたはずだが、高校の先生からこういったことを教えてもらったので、世界文学に興味を持つようになったとかフランスの詩に興味があるとかが一切記憶にない。モームは面白いという一言でぼくがこれだけイギリス文学に興味を持ったのだから、そんな一言がほしかった>
石井は、本棚からモームの『人間の絆』第4巻を取り出した。
<この小説の面白さは、登場人物の個性だと思う。足に障害を持つ医師志望の主人公、酒場のウエイトレスで悪女のミルドレッド、パリで出会った詩人クロンショー、後に妻となる女性の父親アセルニーそしてやがては結ばれるサリー、こういった人たちの個性が際立つので、読んでいて楽しい。「人生に意味などあるものか」という文章だけが一人歩きして、この『人間の絆』やモームの小説が、虚無主義の扱いをされるのは本当に気の毒だと思う。主人公が悟りの境地に至るために必要だったこの一文だけを取り上げるのは、酷だと思う。前後の流れを読んだら、主人公の人生への前向きな姿勢も感じられるし、そう決心しなければずっとミルドレッドの面影を追い続けたことだろう。アセルニーの明るい性格やクロンショーのような主人公の人生に影響を与えるような人物はモームの軽い感じの小説にはとても珍しい。中野好夫氏が名訳を残しているし、またいつかじっくり読んでみたいなあ。それにしても、ミルドレッドが出て来るところは重くて苦々しいけれど>
急に雨が降り出して、窓の外で大きな音がし出した。雷の音も遠くで聞こえた。
<ジャズのスタンダードナンバーにCome Rain Or Come shine(振っても晴れても)という曲があって、まさに人生は良い時もあるし、悪い時もある。モームは「人生は無意味なもの」で、クロンショーからもらったペルシア絨毯のように人生という広大な経糸(たていと)に思い思いの撚糸で色とりどりの模様を編み上げて行けばよいと小説に書いているけれど、人生は大概思い通りにならず、もしかしたらペルシア絨毯の隅っこにちいさいワッペンのような模様を残すことしかできないのかもしれない。仕事で大成した人なら、大きな模様を残せたならそれは成功した人生と言えるかもしれないけれど、小さな紋様しか残せなくてもそれでも人生に意義はあるんだよとモームが言ってると考えれば(モームはそんなことを言わないよとの声も聞こえてきそうだが)『人間の絆』は立派な人生の応援歌と言えるんじゃないのかな。表現に問題があるところを修正して新訳が出れば、嬉しいんだけれど>
雨が止んで、カーテンの向こうでは陽が射していた。石井は、ほら、いつものように雨の後にはきっとあたたかな晴れがやってくるんだからと笑顔で独り言を言った。