プチ小説「東海道線の妖精 30」
石井はいつものように仕事が終わってから米原駅に向かったが、高槻駅で新快速に乗り、向かいのホームを眺めるとそこに松子がいた。松子は石井に気付かず電車が動き出したので、石井はいつまでも眺めているわけに行かず、持ってきたモームの『人間の絆』を取り出した。
<それにしても、この小説は一時大きな影響を受けた小説と言える。クロンショーのような人生もありかなと思って、ウイスキーや日本酒を毎晩飲んでいた時期もある。それから回避できたのが、ディケンズの『大いなる遺産』『リトル・ドリット』などの主人公の奮闘と言える。ぼくも酒ばかりを飲んでいるのではなく、やりたいことをやってみようと。やはりモームの虚無主義、「人生は無意味なもの」という言葉に、結局のところは毒されてしまったのだろう。でも今はそんな偏った見方はしなくなり、人生を客観的に見られるようになったと言える。諦観の境地を脱却して、どんなものでも一度チャレンジして自分なりにかみ砕き消化しようと今では思っている>
新快速が米原に着いたので、石井は一旦改札から出て売店で琵琶湖名物小鮎の佃煮を購入した。大阪行きの新快速に乗り、しばらくすると妖精のおじさんが石井の向かいに座った。
「どうや、石井君は久しぶりにモームの小説を読み返したんか」
「昔の懐かしい小説として今では読める気もしますが、モームの小説を読んでいた頃のぼくは人生に失望していた頃と言えますので、ホントのことを言えば余り掘り返したりしたくないんです。でもそもそもイギリス文学や西洋文学に興味を持ち始めた切っ掛けがモームの小説だったので、これからも大切にしてゆきたいと思います」
「そうやな、完全無欠の人物がいないように、完璧な出来栄えの小説もない。どこか問題とか、整合性がないところがある。それだからこそ小説家にとっては自分の作品が愛おしいんとちゃうやろか。有名なところでは、シャーロック・ホームズのワトソンは3回結婚したという意見がある。またディケンズの『大いなる遺産』の終盤の人間離れした回復力は普通なら考えられないことや。そやけど読者はそんなことはやいのやいの言わんとそのまま笑顔で受け入れている。ほんで石井君はこの小説から学んだことというとどうなるかな」
石井は、余りにたくさんあるので少し時間をくださいと言って黙り込んだ。そしてしばらくして話し始めた。
「ぼくはこの小説の中で、主人公が船医になって世界中を旅していろんな経験をするという行に興味を持って、医師ってそんなことができるんでいいなと思ったものでしたが、実際のところは、医師が常に新しい医療を吸収するためには総合病院(大きな病院)、公立病院、大学病院などで研鑽を積まないと、技術的に立ち遅れてきちんとした診察ができなくなります。船医になるということはある特定の小さな社会の中で限られた種類だけの疾患を扱うことになり、また広く浅くといった対応になるので、数年もすれば本国に帰ってまた一からやり直す覚悟でないととてもできません。船医になるというのは考え方として読者に共感を齎しますが、実際のところは主人公が現実から逃避しているとしか考えられないという意見も出て来るでしょう。そういう風に読者の理解力や立場によって、その小説の評価が大きく変わるのだと思います。ぼくの『人間の絆』の評価の変遷を言うとすると、最初は人生とは何ぞやの答えをもらったような気になり、思うがままの自堕落な日々(お酒ばかり飲んでいました)を送っていましたが、ある日親友からそんなことしてたらあかんでと言われて、改心しまじめに人生に取り組むようになりました。仕事で芽が出なかったので、いろんなことにチャレンジしてそれは人生の喜びを与えてくれました。イギリス文学、クラシック音楽からもたくさんの喜びをいただきました。今では昔のこととして冷めた目で見ることができます。あの頃は酒ばかり飲んで無駄な時間を費やしてしまったと」
「うーん、ということはやっぱりこの小説から得られるものはないという結論なんかな」
「いいえ、ぼくにとって『人間の絆』は世界を自分の感覚で捉える切っ掛けになった本です。もしこの『人間の絆』を読まなかったら、いまでも頭を搔きむしって、「人生って何なんや」と言っていたかもしれません。もともとぼくはお酒が好きなので、中国の詩人のように、酒ばかり飲んで律詩を作っていたかもしれません。そう、ぼくの人生を少しだけナビゲートしてくれた本として、いつまでも大切にしたいと思っています。でも主人公のミルドレッドに対する「痴人の愛」は余り参考にならないと思います」
「そしたらサリーとの恋愛はどうや」
「それは本筋とあまり関係がないのでどうなのかな...あっさりとしていて取り上げるほどのものではないと思います」
「ほたらまた10年ほど経過して石井君にこの小説の評価を聞いたら、変わっているのかな」
「そうですね、その可能性はありますね。その時「人生は楽しい」と言っているか、「人生はつまらない」と言っているかで、この小説の評価が変わってくると思います」
「その時楽しいと言えるよう、頑張らんとあかんよ」
「そうですね」