プチ小説「東海道線の妖精 33」
石井は昨晩妖精のおじさんが思いがけないプレゼントをしてくれたので、今日は近所のスーパーでおかきの詰め合わせを購入した。
<荷物になるかもしれないけど、お礼を言いたいんだ。あんな印象に残る夢を見せてもらえるなら、松子さんのこともそれだけでも満足と言いたいところだけど、そんな欲のないことを言ったら、先生は、一所懸命に教授しているんだから、成果を生み出さないといけないよと言われるんだろうな>
妖精のおじさんが能登川駅で乗り込んで来て石井の向かいに座ると、辺りの動きが止まり、暗くなった。
「どうや、元気にしとるか」
「先生、素敵な夢をいただきありがとうございました」
「いやいや、あんな夢で満足してもらって困る。ツッコミを入れてもらってもええくらいや」
「へえ、そうなんですか」
「そう、最初の夜空も、小学生が書いた夜空の絵みたいやったやろ。爆撃機が空に突然現れて何もせんというのも物足りないし」
「いえいえ、夜空は幻想的で不思議なものを見せてもらって得した気がしました。爆撃機が襲って来たら穏やかでなかったでしょう」
「うまいこというなぁ。一応四コマ漫画のように夢を構成したんやが、楽しんでくれたかな」
「それはもう、またお願いしたいです」
「そうか、そう言ってくれるんやったら、また考えるわ。ほんで、今日のお題のことやけど、せっかくモームをやっとるんやから、残りのひとつもと思うんやが」
「『月と六ペンス』ですね。この小説は、モームの作品の中では誰もが最初に取り上げる作品で...」
「石井君は、なぜこの小説がまず最初にの小説になっているのかわかるか」
「それは、タイトルが奇抜というか、どんな内容かそそられるからじゃないですか。美しくて立派なものとちっぽけで役に立たないものを対比して物語を展開するということが読み取れて、面白そうだなと誰もが興味を持ちます。夢と現実、芸術と世俗を描いたものと言われますが、会社で普通に働いていた人が突然、画家になりたいと言って、パリに修行に行くのですから、何だか面白そうだなということになり、絵を描くためにタヒチまで行ったということになると、そこでどんな生活をして成功したの失敗したのかという風に結末を知りたくなります」
「そうやな、そういう風に、読者がその小説を読み始めたら、結末が知りたくて最後まで読んでしまう。そんな魅力がある小説なんやが、ここに恋愛で参考になるところがあると思うか」
「登場する人物がみんな40才位を想定しているように思うので、どきどきする恋愛の当事者という人物はいないですね。ストリックランドは、画家になるためにパリに出ますが、夫人にその話をせずに突然妻を捨ててパリで絵を描く修行を始めるのです。ストリックランドがタヒチから帰国して重病になった時に同業のストルーヴの妻がストリックランドに好意を寄せるようになりますが、これも恋愛とは言えないでしょう。『人間の絆』は最後にフィリップとサリーが結ばれますが、それまでのフィリップとミルドレッドとの恋愛が「痴人の愛」と呼ばれるような、暗い感じの尋常でない愛を長々と描いていますし、『剃刀の刃』のラリーもインド哲学にのめり込んでいるようで、女の子には疎いようです。『ランベスのライザ』のヒロインは妊娠してから男に捨てられて、近所の人から暴行を受けて死んでしまうという後味の悪いストーリーですから、読んでいて興味が最後まで持続するのかもしれませんが、2度読みたくなる小説とは言えませんね」
「短編集は読んだんか」
「そうですね。こちらは「太平洋」という文庫本が出ていたように、南太平洋の島での生活を描いたものがいくつかあって、興味深く読んでいたこともあるのですが、全体的に、臥薪嘗胆のための肝を嘗めているような気持ちになる小説が多かったという記憶だけが残っています」
「そうか、ほしたら、次は別の作家で行こ。と言っても小説はこの辺りで終わるとしよう」
「じゃあ、次は漫画ですか」
「それは次回までのおたのしみー」
そう言って、妖精のおじさんは草津駅で下車した。