プチ小説「耳に馴染んだ懐かしい音 15」
緊急事態宣言が解除になって1ヶ月して二郎が四条通の北側を西に向かって歩いていると、森下のおばちゃんが向こうの方から歩いてくるのが見えた。しばらくするとおばちゃんも二郎に気付いて、笑顔を見せた。
「ようやく宣言も解除になりましたが、クラリネットのレッスンは再開されましたか」
「ええ、私は主婦で仕事をしているわけではないから、三密回避とか言われないけれど、医療関係の仕事をしている人は解除されなくて...まだレッスンは受けられないみたい。それにいろんな制約があって、以前のようなレッスンが受けられるようになるまでにはまだまだ時間がかかりそうよ。今年も発表会は中止になったし」
「そうなんですか。発表会が中止だと、ずっとテキストのエクササイズやアルバムに載っているクラシック、ジャズ、ポップスの曲なんかを練習されるんですか」
「そうなの、発表会があると一つの曲を仕上げようとみんなで一所懸命練習するし、勿論個人でも頑張るしで技術向上のためには大切なことなんだけど...それに京都の立派なホールで演奏できるというのも素敵じゃない。最近ようやく、緊張するのから開放されて、自分の音もステージで聞けるようになったので、もっと頻繁に大きなホールで演奏できたらいいなと思っていたんだけど、とても残念だわ。二郎君の方はどうなの」
「仕事に慣れたし、ぼくもそろそろ何か楽しいことを始めたいと思うんですが、コロナ禍で躊躇していました」
「でもいよいよ何か始めようかと、今日はそれを探しに来たというわけね」
「そんなところですかね。でも京都の街を歩いていると、何か楽しいものに出会えるんじゃないかという期待感はいつもあります」
「ふーん、例えばどんなところかな」
「例えば、河原町通と烏丸通に挟まれた、四条通と三条通の間のエリアはいろんなお店があって歩いているだけで楽しいですね。ぼくはCDやレコードをこの辺りでよく購入しますし」
「私の方は、食べる方だけどお惣菜を錦市場で買ったり、いろんな国の料理を食べさせてくれるレストランを利用したりしているわ」
「それから京都らしい落ち着いたエリアを散策するというのも京都の魅力です」
「どんなところに行くのかな」
「ぼくは賀茂川べりですね。それから哲学の道から法然院、嵐山の天龍寺と常寂光寺、嵯峨野、高雄なんてとてもいいとこだと思います」
「そうね、特に高雄はこれから秋が深まって紅葉のシーズンになるし、行ってみたいところだわ」
「ぼくも神護寺でかわらけ投げを一度やってみたいです」
「わたしは高雄のあちこちをゆっくり散策してみたいわ。ねえ神護寺ともうひとつお寺があったじゃない」
「京都~♫ 栂ノ尾~♫なんとかですね」
「あっ、そうそう、高山寺だわ。それからバス停を下りて神護寺に向かう道も紅葉がとても綺麗で...今年は紅葉が綺麗って言われているし、ホントに高雄に行きたいわ」
「紅葉なら常寂光寺や法然院なんかもいいですね」
「そうね、今年は京都のどこかで紅葉狩りをしたいわね。その他に二郎君のおすすめの場所ってあるの」
「そうですね、高雄よりも遠くになってしまいますが、大原の里、三千院なんかも行ってみたいですね」
「わたし、なくなるまでに行っておけば良かったと思う寺社が2つあるの」
「ひとつは寂光院ですね。ぼくも見たかったと思っています。山門のところの紅葉、見たかったなあ。もうひとつは...」
「奈良のお寺よ。塔が台風で倒れた杉の木に...」
「室生寺ですね。ぼくもあの苔むすゆかしい五重塔を見ておけば良かったと思います。でもその頃ぼくは中学生だったからどうなのかな」
「そうねえ、その頃二郎君は、室生寺というお寺の五重塔の存在は知っていたかもしれないけど、間近で見てみたいという思いはなかったかもしれないわね」
「どちらも再建されているようですが、やはりそれまであったものとはまったく異なるものですから、喪失感を感じるでしょうね。とても寂しくなる気がします...」
「わたしたちの心の中も同じかもしれないから、存在する間にできるだけ利用したり、活用したりしないとね」
「???」
「ふふ、クラリネット演奏や読書なんかの文化的活動のことよ。時すでに遅しということがないようにしましょ」
「おっしゃる通りですね」