プチ小説「座談会『こんにちは、ディケンズ先生』第1巻について考える」

「こんにちは、みなさん、司会の田中です。前回のプチ小説でお話したように、これから5回に分けて、船場弘章氏の『こんにちは、ディケンズ先生』についてのご意見をここにお集りのみなさんからいただくのですが、いつものメンバー、つまり、橋本さん、いちびりさん、鼻田さんに加えて、本日は、作者ご自身にもお越しいただきました。では、まず作者の船場さんから、今回の座談会の開催に当たり、何か一言いただけると有難いです」
「いつもみなさんからお力をいただいて、プチ小説の多くを書かせていただいているのですが、本日はこんな若輩者のわたしのためにお時間を割いていただいて心より御礼申し上げます。今日は、気楽に皆さんに語っていただき、何かつけ加えることがあれば、ふつつかながら補足させていただこうと思っています。まずは、みなさんから、わたしの小説についてのご意見などをいただければと思っております」
「意見ちゅーか、質問なんやけど」
「はいはい、なんでも承ります」
「まずは、なんでずぶの素人の船場君が、小説を出版しようと思うたかやな。そのあたりのことを話してもろうてから、小説そのものについて、あーでもない、こうでもないとみんなで侃々諤々の議論をかわすのがええと思うんや。時間はいくらでもあるから」
「仰る通りです。それでは、わたしからまず出版に至る経緯をお話ししましょう。まずわたしは、1959年に国鉄職員の息子として北摂に生まれました。一応生徒のほとんどが進学する府立高校だったので、関関同立を目指して頑張りましたが、現役では入れず長い浪人生活を過ごしました」
「これでは、船場のバイオグラフィーで終わってしまうんとちゃうか」
「まあ、そのあたりのことは心得てます。端折るところは端折って、ちゃっちゃと進めますんで、しばらく辛抱してください。わたしの母親が子育てのために本屋でパート勤務していたために、小さな官舎なのに大きな本棚がいくつか置かれて、百科事典、日本文学全集、子供向けの世界文学全集、図鑑などがありました。勉強ができるわけでもなく、スポーツができるわけでもなく、また遊ぶお金もないわたしは家にあった本をよく見ました。読んだのではなく、百科事典や図鑑を見るように文学書を見ていたのです。もし文学全集をすべて読んでいたら、大学に入るころから頭角を現して立派な文学者になっていただろうと思いますが、本を見ただけですから、そんな偉大な人物になることはなく、国語力も伸びませんでした。それでも本って面白いなという感情は小さい頃に芽生えたと思います。種からぷちっと芽が出たのが、つまり本格的に本を読みだしたのは、これでは人生がふい(無効)になると考え始めた、浪人2年目でした。それからは乱読気味ではありますが、イギリス文学と新書本に親しむようになったのです」
「そうなんですか、でも、本を読むことと出版をするということとは大違いです。出版を考えた切っ掛けは何だったんですか」
「ごめんなさい、田中さん、それはもう少ししたら話しますので、わたしと本の付き合いについてもう少し話させてください。小説を読むようになって、しばらくして、イギリス文学、ここでもいろいろ経緯があるのですが、結局、ディケンズという作家の『大いなる遺産』『デイヴィッド・コパフィールド』『クリスマス・キャロル』なんかが心を動かされるよい小説だなと思うようになったんです」
「そうか、それで『こんにちは、ディケンズ先生』を書こうと思ったんやな。苦しい時に世話になった文学に恩返しをしようとか」
「鼻田さん、もちろん、それもありますが、筋立てて話したいので、もう少し話させてください。わたしが浪人時代にお世話になったものがもう一つあって、それはクラシック音楽なんですが、今でもわたしを励まし勇気づけてくれます。友人や職場の人から励まされてというのが一般的なんでしょうが、浪人時代は残念ながら孤独な日々を送っていて、イギリス文学とクラシック音楽だけが頼りだったのです。そんなわたしも立命館大学法学部に入ることができ、4年後には無事医療機関に就職することが出来ました。しかし」
「またなんかヘマをしたんかいな」
「残念ながら、いろいろな事情(女性にもてなかったこととお金を持っていなかったというのが大きいのですが)で家庭を持つことが叶わず、また管理職にもなれずに40代に入っていました。そこで詳細を言うことははばかりますが、少しばかりの時間とお金が入り、これを使って少しやりたいことをやってみようと考えたのです。それが槍。穂高登山とホームページです。勿論、読書は続けていましたし、大学生の頃から趣味で英語、ドイツ語、スペイン語の勉強をしていました。山登りをする時にわたしはよく考えごとをするのですが、ある日思いついたのが、私の場合、奥さんも子供もいないので、その代わりに何か残さないと生まれた意味がないんじゃないか。ホームページは止めない限りは続けることができるが、永遠に残るものではない。でも本を出版すれば、後世に残せるのではないかと考えたのでした」
「でも、何も自費出版じゃなくて、文学賞に応募すればよかったのではないですか」
「田中君が言う通りなんです。実は、わたしも一度文学賞に応募したことがあるんです。もちろん落選だったんですが、自分なりに分析してみて、何かバックボーンになるようなものがないと小説を書くことを続けられないと何となく気付いたのでした。それで始めたのが、今まで読まなかった、ディケンズの小説を読むことでした。ディケンズは一般的には、まず中編の『クリスマス・キャロル』、次に『大いなる遺産』、『二都物語』そうして『デイヴィッド・コパフィールド』で終わってしまうのですが、『リトル・ドリット』『荒涼館』『バーナビー・ラッジ』を読んでみたところ、内容が充実していて面白く、わたしはディケンズの小説に魅了されたのでした。そうして浪人時代からお世話になっているクラシック音楽とともにいつか恩返しをしたいと考えたのです。文学賞に応募した場合、落選した後に自費出版したいと考えるかどうかですが、私の場合、それはしないんじゃないかと考えました。まずは自分で納得できる本を完成させて、それが売れるように頑張ってみようと考えました。今から40年くらい前に、読売新聞に近代文藝社の広告が載っていて、あなたの小説を査定しますとあったのを2010年のある日思い出したのです。A査定なら、企画小説として全額出版社負担で広告宣伝もする。B査定なら、自費出版ながら流通する。広告費用を負担するなら対応する。C査定なら、完全自費出版、製本したものはすぐに依頼者あてに送付するといった内容だったと思います。丁度ホームページに掲載していた「こんにちは、ディケンズ先生」が75話溜まり、切りも良かったので、思い切って近代文藝社に送ったところ、B査定をいただいたのです。出版に至るまで、親の説得、費用の捻出などの難しい問題がありましたが、近代文藝社の編集者武田さんはとても親切な女性で、まったく素人のわたしを何とか無事出版できるよう導いてくださったのでした。でも、自費出版というのは、文学賞に応募するというのとまったく違う扱いになるということをまったく知らなかったので、いろいろ苦い経験がありました。それでもとりあえずできるだけのことをしておこうと考え、大学図書館や公立図書館に自著を寄贈して、少しでも足跡を残しておくことにしました。幸運にも、英文学の先生がほとんどのディケンズ・フェロウシップというディケンズの親睦団体に出版してすぐ会員として入れていただくことができて、ディケンズのことについていろいろ教えていただくことができました。ディケンズの小説は『こんにちは、ディケンズ先生』のバックボーンとなっただけでなく、普段お話がとてもできないような大学の先生方との橋渡しもしてくれたのでした」
「まあまあ、船場君が興奮するのはようわかるが、そろそろ、『こんにちは、ディケンズ先生』第1巻の話を...」
「いえ、長く話してしまったので、小説については次回にしてほしいです。そうすると1000はプチ小説「座談会『こんにちは、ディケンズ先生』の展望について考える」ということになり、1001で気分一新して、プチ小説についてのこれからの抱負を語るということになります。その方がわかりやすくていいんじゃないのかな」
「そうですか、それでは次回から『こんにちは、ディケンズ先生』の内容について、忌憚のないご意見を交わすということにしましょう」